記事・インタビュー
国立国際医療研究センター研究所 理事 研究所長
米国国立がん研究所(NCI) / 米国国立衛生研究所(NIH)
満屋 裕明
以前同じタイトルでエッセイを書いた。2008年と2009年だ。私は略次のように書いた。“この100年の間に私たちの生活を何であれ著しく変えたものを挙げよと問うと、答えは概ね、照明・飛行機・電話・自動車 (大量生産)・テレビ・冷蔵庫•クレジットカード・パソコン・e-mail・GPS・スマートフォンなどだ。生物学・医学でいえば、遺伝子治療・分子標的治療・ゲノムプロジェクトであろう。全てがたった一つの国からやってきた。米国からである”。2022年11月に登場、耳目を集めるChatGPT はその原型も最新プログラムも米国で作られた。2022年6月までの日本のノーベル賞受賞者数は29人 (受賞時の国籍で数え方が違う)だが、米国のそれは406人と比較にならない。米国はサイエンスの国である。筆者はその米国、Washington,DC にある米国国立衛生研究所(NIH)の研究室で犇犇(ひしひし)とそれを感じながらこの文章を書いている。
サイエンスこそが紛れもなく私たちの生活を目に見える形で豊かにすることが思い知られる。サイエンティストという職業は自然科学の一部に陣取り、手に負えない自然の謎の解明に、国民の大切な税金の一部を預かって挑む専門職だ。サイエンスの研究に喜びを感じることはかけがえのない「正義」の一部であって、パリやミラノのファッションやハリウッドよりもはるかに「カッコいい」のだ。かつて日本の全ての親が、『末は博士か大臣か』と愛する子どもに期待し、慈しんだ。サイエンスこそが人々の毎日の苦しみを和らげ、取り除き、日常を豊かにする。だからこそ、「サイエンティストはカッコいい」。若い人にサイエンスを通じて「われわれの人生は他のためにある」と、そして「カッコいいサイエンティストになりたい」と感じてほしいと殊更に思うのは多くの本誌読者と同様である。
しかし、2008〜2009年の私の懸念は現在までに倍加したどころではない。日本の博士進学率(修士課程卒業者に占める博士進学者率:2000年は17%:2018年9%)も若手研究者の安定的ポスト(国立大学の40歳未満の無期雇用者数:2010年は1.1万人:2017年5.8千人)もこの10年そこらで半減した。事実、日本の博士号取得者数は1.5万人 (2019年)で過去20年間ずっと漸減状態だ。米国 (2018年9.2万)、中国 (2020年6.6万人) では2000年代初期と比べて2倍以上になっているのにである。主要国科学技術関係予算の通貨ベース年次推移を見ると日本だけがこの十数年もの間、横ばいか微増だが(最大で1.3倍)、同時期、米国、中国、韓国はそれぞれ2.4、31.5、7倍の増加を果たしている。加えて日本の科学予算は「短期決戦」に終わることが多い。現代の先端研究領域は融合領域にある。生命系なら細胞生物学・分子生物学・構造化学・有機化学・動物やその特性に関わる分析・情報科学などの人材がチームを組む。量子物理系では理論と実験・計算・データ分析を担当する若手が集まる。そういった異なる専門性を持つ人材が集まって精鋭チームが形成されるのに当然数年はかかる。しかし、あるプロジェクトは優れたデータが出るころの5年目で終了、幸運に恵まれて10年のプロジェクトも10年目で解体される。精鋭チーム確立の価値、時間、コストには重きは置かれず評価もされないで、訓練された人とデータは放逐され離散し、真に期待されるべき研究は継続も引継ぎもされず頓挫、プロジェクトは無駄に終わる。例の「雇い止め」問題はチーム確立と継続的研究の真価を無視した壮大な浪費を意味する。
COVID-19パンデミックとの戦いで本邦の医学生物学は米欧の技術に大敗した。ワクチン開発では米英中露が先行、外交/軍事物資・重大事項として扱って研究開発に逸いち早く国家予算を投じた。米国ではトランプ前大統領が「ワープ・スピード作戦」を指示、2020年3月には約1兆円を拠出した。同じ頃、安倍晋三内閣はワクチンの研究費を補正予算に計上したが、額はAMEDを通して約100億円。米国のそれの100分の1。しかも日本での研究開始は2020年の春以降で、すでにPfizer-BioNTech社のmRNAワクチンの第1/2相臨床試験は2020年4月に開始され、第3相臨床試験は7月に始まった。結果は同年末に臨床系国際誌に報告され、直ちに高齢者などへの接種が開始された。新技術としてのmRNAワクチンの総説は2014年にすでに報告されていたが、本邦の貧相さを増してきている研究環境では到底新技術に追いつくことはできず、「前世紀」の不活化ワクチンなどにとどまった。ワクチンと治療薬を開発した米国8社による売上高は約3286億ドル(約42兆705億円:2021年12月決算時)、米国内で納められた法人税 (売り上げの約5.6) は約2.4兆円。米国が2020年度に「投資」した約192億ドル(約2.5兆円)は製薬企業からの法人税のみで軽く回収できたと推定される。一方日本はワクチンと治療薬を全て米国から購入、その赤字は1.5兆円に上るという。サイエンスへの投資がこうして米国に今も「強さ」をもたらしているのは間違いない。
さて、「サイエンティストはカッコいい」だが、本邦の医師・科学者の待遇を見てみよう。ChatGPTに聞いてみると、医師免許を有する日本の大学教授の年収は800〜1200万円ほど。しかし、米国の同条件者の平均年収は約2817万円。日本の大学の准教授の年収は600〜1000万円、米国では1173〜1656万円という。これでは日本において若くて優れた人材は、競争が煽られているうえに雇用継続の保証がない研究稼業には就きたくないとなっても不思議ではない。日本でもphysician scientistsの育成が強調されるが、待遇改善と研究の継続を可能にする雇用体系の創出が最も叫ばれる。サイエンスへの投資なくして高収益と国の前進は望めない。機はすでに最後通牒の域を超えようとしている。
満屋 裕明 みつや・ひろあき
1975年熊本大卒業。同第二内科を経て1982年米国国立衛生研究所へ。1985年米国国立がん研究所で世界初のHIV治療薬を開発、1991年同所感染症部部長、1997年熊本大第二内科(血液・膠原病・感染症内科)主任教授、2012年国立国際医療研究センター理事・臨床研究センター長、2016年現職。NIH 所長賞、紫綬褒章、慶應医学賞、読売賞、朝日賞、学士院賞等。「ドクターの肖像」2005年4月号に登場。
※ドクターズマガジン2023年8号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
満屋 裕明
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