記事・インタビュー
九州大学 名誉教授
日本精神神経学会 理事長
神庭 重信
「心の健康なくして健康なし“without mental health there can be no true physical health”」とは、WHOの初代事務総長Brock Chisholm氏の言葉です。今日誰もが共有している“健康”の概念、すなわち「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、身体的にも、精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」を提唱したのもChisholm氏です。彼が精神科医だったと知れば、この画期的な“健康”の定義には、精神医学の思想、すなわち、心身相関あるいは生物―心理―社会モデルが表れていることが読み取れるのです。
日本社会がバブル景気から一転して大不況の時代へと突入し、わが国の自殺者が年間3万人を超えたのは1998年のことでした。自殺対策基本法が2006年に策定され、自殺のリスク因子としての精神疾患、中でもうつ病の啓発と早期発見・介入(ゲートキーパー養成、病診連携、診療科間連携など)が推し進められました。この時期と重なるようにして、過重労働によるうつ病や自殺が社会問題となり、職域でのメンタルヘルスの重要性が認識され、ストレスチェック制度の確立へとつながったのです。2013年には、五疾病五事業の五疾病目に「精神疾患」が位置付けられ、これにより、地域医療計画を自治体ごとに立案していくことが義務付けられました。このように、メンタルヘルス対策が遅れていた日本国内でも、こころの健康に対する意識が高まり、対策が徐々に張り巡らされだしたのです。
COVID-19の流行で、感染症対策が急務となっていますが、この闘いが長期化するならば、フロントラインで働く医療従事者や行政の関係者はもとより、多くの国民のメンタルヘルスに重い負担がのしかかり、やがて精神疾患の患者数や自殺者数がさらに増加することも予想されます。
話を戻しますと、精神疾患の患者数は年間400万人を超え、精神科医が活躍する場も多岐にわたっています。病院やクリニックに加えて、産業精神衛生の現場、県や市の精神保健福祉センター、大学の学生相談センター、児童相談所、心理・教育系の学部、司法関係の職場などがあります。このように選択肢が多いので、妊娠・出産、子育てや介護などのために仕事を休むことがあっても、現場への復帰がしやすい診療科であるといえます。
同じく学問分野の幅も広く、精神医学の射程は、精神療法、心理学、哲学、精神病理学、精神薬理学、神経生理学、脳画像研究などに加えて、神経心理学、社会学、脳科学、分子生物学などにもおよび、「こころと脳」の謎に迫っています。
精神医学の魅力は、「こころと脳」という最も謎に満ちた世界を対象としていることだ、と思っています。実際の臨床に即して言えば、目の前の患者のこころだけでなく脳・神経の働きも知ろうと試みることです。傷ついたこころを知り癒やすためには、精神科医自身のこころを動かす必要があります。相手の脳・神経の働きを知るためには、神経学や脳科学の最新知識が必要です。つまり精神科医は、自らの「こころと知識」を総動員して、相手の抱える「こころと脳」の問題を知ろうとするのです。そしてその問題の解決を目指して、精神療法の持つ可能性と薬物療法の持つ可能性を探り出そうとします。
自らのこころと知識を治療手段とする精神科医にとって、無駄な人生経験というものはないのです。誰もが避けることのできない苦しい体験、例えば失敗、挫折、喪失など、それがどのような経験であれ、全ての経験は、患者の抱える苦悩や窮境に対するより深い理解とより適切な診療へと生かされるのです。プロフェッショナルとしての経験に加え、人生経験を積み重ねることで、さらにひと味違う診療ができるようになる、精神科医というのはそのような職業です。
注:精神科医のキャリアパスについてさらに知りたい方は、ホームページをご覧ください。
神庭 重信 かんば・しげのぶ
1980年慶應義塾大学卒業。米国メイヨー・クリニックで精神薬理学フェローと精神科レジデントとして精神医学を学び、同講師。帰国後慶大講師を経て、1996年山梨大学精神神経医学講座教授を経て、2003年九州大学大学院医学研究院教授(精神病態医学)。2019年より九州大学名誉教授、現職。一般社団法人日本うつ病センター理事長、栗山会飯田病院顧問。
※ドクターズマガジン2021年11月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
神庭 重信
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