記事・インタビュー
医療法人社団 広星会 秋葉原白内障クリニック 名誉院長
社会福祉法人 三井記念病院 前眼科部長
赤星 隆幸
私が研修医だった頃の白内障手術は水晶体全摘出術。患者さんは全身麻酔に準じた前投薬を施され、ストレッチャーで手術室に運ばれた。麻酔は球後針という釣り針のような長い針で、眼球の奥に何ccもの麻酔薬を注射し、鉛の重りをのせて眼球を圧迫。閉瞼(へいけん)を抑えるために顔面神経ブロックも行った。制御糸で眼球を固定して強膜を半周近く切り開き、ジアテルミーで止血してから濁った水晶体をクライオチップで凍らせて丸ごと取り出す。創口は絹糸で何針も縫合したので、手術時間は優に30分を越えた。術後は軟膏を入れて眼帯。片眼につき1週間の入院。1カ月ごとに片眼ずつ手術を行い、眼鏡が出来上がりやっと見えるようになるのに2カ月近くを要した。当時は眼内レンズなどなかったので、術後眼鏡は虫メガネのように分厚く、見え方も悪かった。手術は大変だったが、患者さんは前投薬で意識朦朧とした状態なので、何ら不安もなく手術を受けておられたに違いない。
今日の手術は数滴の点眼麻酔下に2㎜の角膜切開。一滴の出血もなく、超音波で水晶体を乳化吸引して眼内レンズを移植する。創口は縫わずに閉じるので手術時間は5分もかからない。両眼同時に手術を行う施設も増えている。術後はすぐに物が見えるので、眼帯もせずに歩いて帰宅。眼内レンズによって遠視や近視だけでなく、乱視や老眼も治るので、手術直後から若い頃のような視力を取り戻すことができる。
近年の白内障手術の進歩は目覚ましく、手術の結果には雲泥の差がある。ただ手術を受けるのは、生身の患者さんであるということに変わりはない。砂粒一つ入っても痛い眼球にメスを入れるのだから、目の手術など聞いただけでも恐ろしい話である。白内障の手術は一生に一度だけ。やり直しが利かない。たった5分間でそれから先の人生の視力が決まる。医師にとっても、患者さんにとっても手術は真剣勝負なのである。
患者さんをリラックスさせるためと称して、術中に音楽をかける眼科医がいる。最近の若い人たちが好む音楽は、年老いた患者さんの好みではないだろうし、白内障の手術は音楽を聴きながら鼻歌交じりでできるようなものではない。作業空間はたったの2〜3㎜。上には角膜内皮、下はセロハンのように薄い後囊。そこに触れたら角膜障害、核落下という重大な医療事故に至る。
両手で手術器具を操作し、右足で顕微鏡の倍率ピントを合わせ、両目は顕微鏡の手術野と心電図モニター、手術室内の様子を見渡し、両耳で超音波装置の吸引圧を音で聞き、左足のフットペダルで超音波出力、吸引圧をコントロールする。
私は今までに18万件以上の白内障を執刀し、今でも一日に60件以上の手術をしているが、どんな軽症の白内障でも、鼻歌交じりで手術ができると思ったことは一度もない。私にとっては60分の1、18万分の1の手術であっても、患者さんにとっては一生に一度、生涯の視力がかかった大切な手術なのである。
私が術中、耳を傾けているのは、患者さんの息遣いである。心電図モニターに脈拍や血圧の変化が表れる前に患者さんの緊張が分かる。私は術中、今何をしていて、次に何が起こるのかを説明しながらメスを進める。中には返事もできないほど、緊張しておられる方もいる。血圧が200mmHgを超えモニターのアラームが鳴る。昔は反射的にCa拮抗薬の側管注を指示した。即座に血圧は下がり、満足して手術を続けたが、それは正しい選択だろうか? 角膜には血管がないので白内障の手術で出血は起こらない。血圧が上がって術野が血の海になることはない。患者さんは怖くて不安で血圧が上がっている。Ca拮抗薬がその不安を取り除くことができるのだろうか?
そんなとき、私のクリニックのスタッフは患者さんの手をそっと握る。即座に患者さんは緊張から放たれ、閉瞼の力がすっと消失して硝子体圧が下がる。手術が終わったときの第一声は、手を握ってくれてありがとう! 術者の私にではなく、手を握っていたスタッフへの感謝の言葉である。患者さんの笑顔と感謝ほど医療従事者を励ますものはない。今では私が何も言わなくても、手術が始まるとスタッフが患者さんに手を添えるようになった。準備したCa拮抗薬は使うことがなくなり、手を握っていてくれたので安心して手術を受けられたという感謝の言葉が院内の投書箱にあふれるようになった。
赤星 隆幸 あかほし・たかゆき
1982年自治医科大学卒業。1986年東京大学医学部附属病院眼科、1989年東京女子医科大学糖尿病センターを経て1991年三井記念病院眼科部長に。2021年より現職。海外の大学の眼科客員教授を併任。2017年Kelman賞受賞。白内障手術における「フェイコ・プレチョップ法」を開発、世界68カ国で講演や公開手術を行っている。「ドクターの肖像」2017年2月号に登場。
※ドクターズマガジン2021年12月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
赤星 隆幸
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