記事・インタビュー
患者一人一人を診て治療するのが臨床医だとすると、自治体や国などの集団を診て治すのが公衆衛生医師。新型コロナウイルス感染症禍を経て公衆衛生に関心が高まる今、臨床医からも公衆衛生を学ぶ必要性が声高に言われるようになってきた。業務範囲が多岐にわたりつつも、表舞台に出ることの少ない公衆衛生医師の仕事は、知られていないことがあまりにも多い。麻酔医や救命救急医を経て厚労省の医系技官となり、公衆衛生の研究に進んだ奈良県立医科大学教授の今村知明氏と、脳神経外科医から公衆衛生医師となり広島市の南保健センター長を務める平本恵子氏に、公衆衛生医師の仕事や醍醐味、臨床経験の意義や今後の課題などを語っていただいた。
<お話を伺った方>
今村 知明(いまむら・ともあき)
1988年関西医科大学卒業。1993年東京大学大学院第一基礎医学専攻修了後、厚生省に入省。統計情報部から1994年に文部省学校健康教育課、1996年厚生省エイズ結核感染症課、1997年佐世保市保健福祉部長、同保健所長、2000年食品保健部企画課、2003年東京大学医学部附属病院助教授・企画経営部長、2007年から現職。『食品防御の考え方とその進め方 よくわかるフードディフェンス』、『地域医療構想と地域包括ケアの全国事例集』など。医療管理学、医療系社会学に精通。
平本 恵子(ひらもと・けいこ)
脳神経外科+リハビリテーション科で17年間の臨床を経験。育児・介護を経験したタイミングで公衆衛生医師の存在を知る。人の生活や環境をデザインしてみたかったという。1998年広島大学医学部卒業後、同学脳神経外科教室に入局。2006年に広島大学大学院医歯薬学総合研究科脳神経外科博士課程を修了。2016年に広島市に入庁。西保健センター長、広島市健康福祉局保健予防担当課長などを経て現職。2020年に広島大学大学院医系科学研究科公衆衛生学(MPH)コース(社会人枠)修了。医学博士、公衆衛生学修士(MPH)
国が動いて世の中が変わるのを体感できる
今村 先生 :私ははじめに関西医科大学で麻酔医や救命救急医をやっていて、その後東京大学の大学院に行き、5年ほど臨床をやったあと厚生省の医系技官を10年ほど務めました。それもあって、奈良県立医科大学に所属する今も厚労省関連の仕事は多いですね。医療計画の策定や地域医療構想のためのデータ作成、過去には薬害エイズ訴訟や食品メーカーの食中毒事件にも対応しました。近年では国のトクホや食品表示の委員会の座長もしています。
平本 先生 ︙私は広島大学の脳神経外科に入局し17年間臨床医をしていました。出産、育児、介護のタイミングで公衆衛生医師に舵を切り、2016年に広島市に入庁。これまでに区保健センターの医務監や本庁の健康福祉局の課長を経験しています。普段は乳幼児健診や公衆衛生の広報活動、災害対応などもしていますが、新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)まん延時は国・県や医療機関との連携体制の整備から施設のクラスター対策、患者の健康観察や検体採取に至るまで、あらゆる感染対策事業に関わりました。公衆衛生医師としては8年目になります。
今村 先生 :臨床を経ているところは共通していますね。臨床と公衆衛生の違いはよく聞かれるところですが、大きな違いは患者さん個人を診るか集団を診るかというところ。公衆衛生医師は、仕事の内容と場所がさまざまあり、国、県庁、市役所、保健所や保健センター、WHOや海外大使館などで働いています。
平本 先生 ︙働く中で気付いたのは、専門性を極める臨床に対して、公衆衛生は多様性を極める仕事だということです。臨床医はガイドラインに沿った医療行為を正しく行うことが求められますが、公衆衛生医師は医療行為を正しく行えるためのシステムや環境を整備し、住民の健康管理・増進に向けた多岐にわたる活動を行う。そのあたりは大きく違いますね。
今村 先生 :専門性と多様性にからめていうと、臨床医のときは目の前の患者さんと患者家族に集中していましたが、行政に入って、広い目で世の中を見るようになりました。厚生省の仕事をしていたとき、エイズ対策について記者会見をしたのですが、安心してくださいとの意味で「8割が完了した」と話したことが「2割は未完了」という記事になっていたことがありました。また、世界と比べても日本はコロナの死亡者が少ないのですが、それでも国内の数字だけにフォーカスすると「対策は失敗」と報じられてしまう。どこに視点を置くかによって事実の捉え方は変わりますし、どんな対策を打つのかも変わる。広い目で世の中を見ざるを得なくなったという感じでしょうか。
平本 先生 ︙まさにおっしゃる通りで、その広い視野も、臨床経験があってこそ得られたのかもしれません。医療と市民、医療と行政、医療とメディア、それぞれの懸け橋になるためには、両方を知っていることが強みになります。メスも持たないし薬も処方しませんが、たとえばコロナワクチンの啓発をしたり、ワクチン接種のしくみや流れをつくったりして皆さんの行動を変えていく。ダイナミックな仕事です。
今村 先生 :集団に対して説明して動かすというのは、特殊な技術ですよね。まずキーパーソンやオピニオンリーダーを見極めて働きかけ、そこから現場や医師に動いてもらうにはどうするか、医師の言葉を聞く市民にどう動いてもらうか。それぞれのフェーズでのアプローチ方法を習得する必要があります。それができて初めて自治体が動き、国が動いて世の中が変わっていくのを体感できる。それが公衆衛生医師の醍醐味の一つです。患者さんが治るという臨床医の喜びにも匹敵します。
平本 先生 ︙そうですよね。どんな言葉でコミュニケーションを取るか、公衆衛生に関する熟慮と患者さんの命を救うための熟慮は、根本的にはつながっていると思います。大きな動きが生まれたときは、本当にやりがいを感じます。
今村 先生 :うまくいかなかったら日本がコケるので責任重大ですし、集団を敵に回すことにもなる。でも、成功すればその成果は何十年も残ります。
見えないつながりを力にする公衆衛生医師マインド
今村 先生 :公衆衛生医師は、コロナのような大規模な感染症や医療にまつわる事件が起こったときに活躍が求められます。非常時にはしんどい仕事になりますが、日ごろは注目されないので、そこが複雑なところで(笑)。
平本 先生 ︙そうなんです。役所の奥深いところにいるので、姿を見せることがほとんどなく、医療界の希少種です(笑)。うまくいって当たり前という地味で地道な仕事ですが、今村先生はどんな人が公衆衛生医師に向いていると思われますか?
今村 先生 :国全体をよくしたいと思っている人ですね。偉くなりたい、出世したいという人にはあまり苦労対効果が合わないと思います。われわれの座右の銘が「小医は病を癒し、中医は人を癒やし、大医は国を癒やす」という中国の古い言葉なんですが、その言葉を実践できる人に来てほしいですね。
平本 先生 ︙いい言葉ですね。私は、さまざまなつながりをつくる力のある人とともに仕事がしたいです。公衆衛生医師は一人では解決できない大きな課題、答えのない課題を、多くの人と力を合わせて乗り越えていくので、躊躇せずにコミュニケーションが取れる人ですね。もう一つは多角的な視点を持つ人。「虫の目 鳥の目 魚の目」というように、多様で柔軟な視点を持てることが大事だと感じます。
今村 先生 :「公衆衛生医師マインド」というものがあるとしたら、それは民主主義の根幹である「最大多数の最大幸福」だと思うんです。公衆衛生では、最大の利益を出すために、どうしてもデメリットをなくせない。予防接種でも、必ず副反応は起こってしまいます。言ってみれば、10万人の命を救うことと100人の副反応を天秤にかけた上で重い決断をする。その判断力と、批判を受け止める決意こそが公衆衛生医師の仕事です。臨床の現場でも重い決断はありますが、影響の大きさは公衆衛生医師の比ではありません。それに、臨床医は患者さんを助けたら感謝されますが、公衆衛生医師は全ての人に感謝されることはまずない。副反応のあった人から責められることはあっても。それでもやるべきだと決断する、というのが公衆衛生医師マインドですね。
平本 先生 ︙本当に今村先生のおっしゃる通りです。その重さや辛さは、経験を積むごとにひしひしと感じています。私たちの仕事には正解がないですよね。いろんな人のことを思い、尊重して、社会がうまく回っていくにはどうすべきかを考え抜いて形にするには、多くの仲間が必要です。例えば、一つの重い決断について、考え得る限りの最適解だと言ってくれる人たちをどれだけ増やせるかだと思うんです。見えないつながりを力にして課題を解決していく、それも公衆衛生医師マインドかなと思っています。
※ドクターズマガジン2024年4月号に掲載されました。
今村 知明、平本 恵子
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