記事・インタビュー
大阪大学大学院生命機能研究科教授
仲野 徹
#14 しんどいのは君だけと違うんや
※by 心の師匠
来年の3月には65歳の定年を迎える。それまでに懲戒で辞めさせられたり死んだりしなければ、26年と数カ月という長きにわたって教授を務めたことになる。38歳で大阪大学微生物病研究所の教授になって、47歳で医学部の教授に異動した。さぞかし順調だったのだろうと思われるかもしれないが、主観的にはそうでもなかった。
33歳でドイツ留学から帰国して本庶佑先生の研究室のスタッフになったのだが、2年以上全くデータが出ず、もう研究をやめようと何度思ったか分からない。この辺りのことは、本誌の「ドクターの肖像」で紹介していただいたし、臆面もなく拙著『生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究』(河出文庫)に「『超二流』研究者の自叙伝」として書いてあるので、興味がおありの方はご一読いただきたい。
本当に幸運に恵まれたとしか言いようがない。マウスES細胞(胚性幹細胞)から血液細胞を試験管内で分化誘導するための、画期的とまではいかないが、そこそこ独創的な方法を開発して、サイエンス誌に発表できた。それがなければ、研究をやめていたに違いない。
データが出ないときは、一報いい論文を書けさえしたら楽になるだろうと思っていた。しかし、その考えは甘かった。そこそこの仕事をしたら、次はそれが評価の新たな基準になるから、一段と厳しくなる。そんな大層なものとは違うかもしれないが、芥川賞や直木賞の受賞後第一作が難しいというのと似ているかもしれない。
というような状況の時に、ある大先生とタクシーで二人っきりになる機会があり、「最近がんばっとるやないか」とお褒めいただいた。上に書いたような状況だったので、「楽になるかと思っていましたけど、もっとしんどくなったかもしれません」とお答えした。その時に頂戴したのが、今回の座右の銘である。続けて、「みんな言わんだけで、誰だってしんどいんや。私だってしんどいし、本庶先生だってしんどいはずや」とおっしゃった。おぉ、そうなのか。何だか気分がものすごく楽になった。以来、その先生は私にとっての「心の師匠」である。
独立してからなかなか研究が軌道に乗らなくて、教授になってから3~4年目が一番きつかった。そんな時、これこれでしんどいねんけどと弱音を吐いたら、自分もそうだという人が何人もいた。みんな似たような時期に教授に着任された先生たちであった。当たり前のことなのだが、同じような境遇にいる人は同じような悩みを抱いていることが多いのだ。以来、つらいときや困ったときには、できるだけ弱音を吐いて、「弱音仲間」を募るようにしている。これは精神衛生上極めてよろしい。
というようなことがあったので、ずいぶんと前から「上手に弱音を吐く運動」というのを積極的に展開したらいいのではないかと真剣に考え続けていた。そして最近、すごい本を手に取った。岸田奈美さんの『もうあかんわ日記』である。
中学生の時に父が他界、弟はダウン症、母は車いす、祖母は認知症。そんな岸田さんが「もうあかんわ」とつぶやかないとやっていけない日常を書きつづった本だ。「人生は、ひとりで抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」という名言が素晴らしすぎる。むちゃくちゃ面白かったとSNSで書いたら、版元のライツ社から対談しませんかとのオファーがあった。願うところやないの。
大阪の書店でのトークショーは最高に楽しかった。そして、驚くほど元気をもらえた。どう見ても、岸田さんの状況は相当に厳しい。でも、なんと30分で5000字も打てるという超高速タイピングで発信しながら、明るく生活しておられる。
つらいことを上手に吐露すること。そして、そういった内容を、共感をもって不謹慎ではなく周囲が「面白がる」こと。これってとっても大事とちゃうのか。岸田さんみたいに高度な業は難しいかもしれない。でも、「多かれ少なかれ、みんなしんどいんや。自分だけと違う」。そう思えるようになるだけで、肩の荷のほとんどを下ろせるような気がする。考えが甘いと思われるかもしらんけど、いっぺんやってみてください。
仲野 徹
大阪大学大学院生命機能研究科教授。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。
2017年『こわいもの知らずの病理学講義』がベストセラーに。「ドクターの肖像」2018年7月号に登場。
※ドクターズマガジン2021年11月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
仲野 徹
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