記事・インタビュー
大阪大学大学院生命機能研究科教授
仲野 徹
#08 世界は「使われなかった人生」であふれてる(by 沢木 耕太郎)
座右の銘としてはちょっと不思議な言葉かもしれない。しかし、何か大きなことを決める時、この言葉を思い浮かべることが多い。いや、最近は歳をとって、もう大きなことを決めるような機会はほとんどなくなってきたから、多かったと過去形で述べるべきだろうか。
大好きなノンフィクション作家、沢木耕太郎の言葉、というより、本のタイトルである。幻冬舎文庫になっているが、ベストセラーをたくさん出している沢木の本にしてはあまり知られていない方だろう。映画評が三十編と映画を巡るエッセイが二編からなる本だ。
人生において、あそこで現実とは違った判断をしていたらどうなっていただろうかと思われることはないだろうか。目が悪いからどうしようもなかったけれど、小さいころはパイロットに憧れていた。あんな出来事がなくてあの子と付き合い続けていたら、まったく異なった人生になっていたはずだ。などなど、六十有余年の人生を振り返ってみると、さまざまな分岐点があった。
コーヒーにするか紅茶にするかといったどうでもいいようなことから、誰と結婚するか、どんな職業に就くかといった大きなことまで、生きていくというのは選択の連続である。しかし、膨大な選択の結果として歩んできた人生は一本道でしかない。
運命というのとは少しニュアンスが違う。元阪大総長、朝日新聞「折々のことば」の鷲田清一先生は「偶然の出来事がだれかにとって決定的な意味をもったとき、ひとはそれを運命とよぶ」と書いておられる(『ことばの顔』、中公文庫)。たしかに、運命というのは、振り返ってみた時に初めてわかるようなものに違いない。
自分の性格は、あっさりしている、より正しくは、ちょっと投げやりだ。大昔から、記憶が正しければ高校生時代くらいから、何かを決める時は、考え抜いてエイヤッと決めて、あとはぐじゃぐじゃと考えないことにしてきたせいかという気がする。あとからいろいろと悔やんでも、元に戻れはしないんだから考え込んでも意味がない。
ライオン宰相・浜口雄幸は「人生は込み合う汽車の切符をうため、大勢の人々と一緒に、窓口に列を作って立っているようなものである」と語っていたという(城山三郎『男子の本懐』、新潮文庫)。自分の並んでいる列がなかなか動かないと思って早そうな列に移る。しかし、その列も動かない。やっぱり元の列に戻ろうと思ったら、そこにはもう自分の場所はない。すこしニュアンスが違うが、この言葉も気に入っている。
仕事柄、進路の相談を受けることがある。一緒に考えて、こういった理由でこちらの方がいいのではないかと伝える。そして「でも、決めるのは自分自身やから、いろんなことを勘案してよう考えてエイヤッと決めたらええわ。でも、その後は振り返ったらあかんで」と、自分がしてきたのと同じことを話す。さらに、最後に必ず付け加える。「どうしようか迷うというのは若さの特権なんやから、悩むことをせいぜい楽しみや」と。だらだらと悩むのはよくないが、しっかり悩むのは人生の糧になる。
先生、あの時ご相談に行って本当によかったです、と言われることがけっこうある。しかし、ほとんどの場合、相談内容はおろか、相談されたことさえ記憶にない。その時は一生懸命考えてあげたのだとは思うけれど、しょせん他人はその程度だ。決断する時、あてにしすぎない方がいい。
沢木は、「使われなかった人生」と「ありえたかもしれない人生」には微妙な違いがあるとする。「ありえたかもしれない人生」には、あの時ああしておけばよかったという夢を見るような遠さがある。それに対して「使われなかった人生」には、そういった惜しむ気持ちがない。なるほど。「使われなかった人生」という言葉、すっごいええと思わはりませんか?
それに「ありえたかもしれない人生」と違って、「使われなかった人生」は今からでも利用できる可能性があるという。昔やってみようと思ったけれど手をつけなかった趣味を始めてみる。あるいは、小さ時いことだけれど「大人買い」なんかも同じようなことだろうか。もちろんそれで人生が変わるほどのことはない。でも、昔咲いたかもしれない花を、何年もたってからちょこっと咲かせたりできたら嬉しいやないですか。
もしかすると、「使われなかった人生」をどれだけたくさん持っているかが、人生の豊かさなんかもしれんなぁという気がしてきたんですけど、どうでしょうね。
仲野 徹
大阪大学大学院生命機能研究科教授。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。
2017年『こわいもの知らずの病理学講義』がベストセラーに。「ドクターの肖像」2018年7月号に登場。
※ドクターズマガジン2021年5月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
仲野 徹
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