記事・インタビュー

2018.04.06

「週刊北原」vol.2 ー僕の自己紹介(後編)ー

米国イリノイ州にあるシカゴ大学で心臓外科医として働いている北原 大翔と申します。
この企画は、日本で育ち日本で心臓外科医としての研修を受けた僕が、米国での臨床留学中に経験する医療や教育の違い、心臓外科医としての仕事、手術室で起こる日本ではありえない出来事などを、真面目かつ可能な限りリアルな形で伝えることを目的としています。
まずは簡単に米国留学に至るまでの過程、前回に続き、僕の自己紹介(後編)を書きたいと思います。

››› 前回(僕の自己紹介(前編))

心臓血管外科研修開始〜留学を本気で目指すまで―毎日が新鮮で刺激的、だけど―

慶應大学時代

心臓血管外科医になることを決めた僕は、母校である慶應大学で修練を開始しました。全ての症例がはじめて経験するものばかりで(学生、研修医と真面目に実習してこなかったからですが)、毎日とても楽しくいろいろなことを学びました。大腿の血管を開ける、という非常に簡単な手技でも、どうしたら早く開けられるだとか、小さい傷でとか、同期や先輩と競い合ったりしていました。当時のチーフレジデントがイケイケの人だったからなのか、もって生まれた僕の性格からなのか、心臓外科は何でもできる一番の科だ、というバカな勘違いをして周りを困らせていたと思います。そしてもちろん、その中でも自分が一番になろう、と本気で思っていました。

心臓外科の大小様々な手術を経験すればするほど、その面白さにどんどん惹かれていく自分がいました。しかし同時に、自分がすごく器用な方ではない、おそらくどれだけ練習しても、どれだけ修練を積んだとしても、単純な技術だけをとったら達人と言われるような外科医には到底敵わないであろうこともわかりました。それは当然のことで、努力したら皆100mを10秒台で走ることができるようになる訳ではなく、そこには才能があり、限界があります。その限界は通常かなり早い段階でわかるものですが、僕の場合は何も考えてなかったからか少し遅く、自分の科を決めてから気づきました。

大学を含め関連病院での研修は充実したものでしたが、出会った人や施設によって執刀機会が大きく左右されてしまう現状や、日本における絶対症例数の少なさを目の当たりにし、僕のスキルではこれでは一番どころか、一人前の心臓外科医にすらなれないのではないかと思いました。仮にこのまま僕が一人前の心臓外科医になれたとしても、決してすばらしい外科医にはなれないだろうし、僕が手術を執刀する時に、果たして後輩に手術を指導することはできるのだろうかと真剣に考えました。それまで漠然と留学には行きたいな、くらいに思っていたものが、留学に行かなくてはいけない、に変わった時期でした。

シカゴ大学の面接〜旭川医科大学時代―第二の故郷旭川―

心臓外科旭川

留学する方法は様々だと思います。僕は自分からたくさんのところに応募するほど活動的でもなく、取りあえず米国留学をしたい意思表示をしながらいい話が舞い込んでこないかな、と待っていました。今考えるとそれは賢い選択ではありませんね。そんな折、当時、シカゴ大学で働いていた今の上司である太田先生が日本人のフェローを探しており、当時良くしてもらっていた兄貴的存在の先輩経由で話が舞い降りてきました。もう、単なる運ですね、周りにいる人たちに恵まれました。

フェローをしたい旨を太田先生に伝えると、シカゴ大学心臓外科のチーフとスカイプで面接することになりました。太田先生にもアドバイスを頂き、いろいろと僕なりに準備して臨んだ面接ですが、「こんな感じの仕事してもらうから」と一方的に話をされて終わりました。

上司(太田先生)と共に

僕的には英語を話す必要もなく助かったのですが、チーフ的にはこんなにこいつ英語しゃべれなかったのか、と僕が働きだしてから後悔したことと思います。一応、事前の打ち合わせで『「何か質問あるか?」と聞かれたら、「質問はないけどこれだけは言わせて。僕はこのプログラムにパーフェクトフィットすると思うのです。後悔はさせません。」とダメ押し的に熱い思いを伝える。』とプラン通り実践しましたが、チーフはその後手術があって急いでいたみたいで、「あー、もう、そういうのいいから。」みたいな顔をしていました。その後、採用通知が届き晴れて米国留学が決まったのが2016年の3月頃でした。ところが、ここからがアメリカの事務手続きの遅いこと遅いこと。結局全部の事務手続きが済んでアメリカで働けるようになったのが9月からでした。6ヶ月も何でかかるのだろう?と思いましたが、こちらに来てからは書類作業が遅いのには大分慣れました。

留学が9月からだったので、ぽっかりと空いてしまった時間をなんとなく大学で過ごしていた平和な時期に(先輩は人生最後の夏休みだな、と言っていました)、突然「5月から旭川で修行してきなさい」という通告が届きました。えらい急だな、とも思いましたが、これも何かの縁ですし、何だか面白そうなので快諾して旭川で修行することになりました。旭川は一言で言うと、最高でした。おそらく日本にいる間に最も心臓の手術を経験し、たくさんの教えを受けたような気がします。旭川医大教授の紙谷先生は非常に心が深く人思いで、面白く、目立つのが好きで、僕が最も尊敬、かつ好きな心臓外科医です。冬の旭川はとても寒いらしいのですが、僕がいた5月から8月はとても過ごしやすく、ご飯は美味しく、とにかく最高でした。

シカゴでの仕事、生活、現在

アメリカに来てからは月並みな言葉になりますが、いろいろ本当に大変でした。特に僕は単身でアメリカに乗り込んだため、落ち込んだ時慰めてくれる人もいなければ、つらさを共有する人もおらず、ましてや僕が働いている間に生活のセットアップをしてくれるパートナーなどもおらず、なんとなく仕事の合間をぬいながら、ちょこちょことセットアップしていきました。人間なんとかなるものだと思います。シカゴは想像していたより明るく暖かく(冬はもちろん極寒ですが)、とても過ごしやすい環境であったことが救いでした。

日本にいれば仕事も大体同じような事をやっていればよかったのですが、こちらはシステムも違うしそれぞれ役職も違う。しかも、僕は特に決まった役職もないので、周りの人から、え、何こいつ、と言った感じで見られながらのスタートでした。手術室に行っても、この手術に入っていいのか悪いのかすらもわからず、入ったところでどこに立てばいいのかもわからない状態でした。アメリカにはフィジシャン・アシスタント(PA)という手術の助手をする人たちがいて、日本の若手医師がやるような事をしているのですが、その人たちとの仕事とかぶったりなんかした時は、助手にすら入れないこともありました。英語がもう少ししゃべれたらもっとうまくやれたのでしょうが、もちろんしゃべれず。チーフやスタッフ外科医から話を振られても「あー」とか「うー」くらいしか出てこず(英語がうまく話せないレベルではないですね)、このまま見捨てられてしまうのでは、と不安でした。そんな逃げ道のない手術室の中で、唯一のオアシスが手術室の看護師さんの明るさと優しさでした。心臓外科担当の看護師6 人は皆フィリピン出身で、金髪、青い目の看護師を想像していた僕としては最初こそ「あれ?」と思いましたが、彼女たちの笑顔にいつも救われていました

そんな感じで最初は非常に不安なスタートでしたが、慣れてくると不思議なもので、英語がしゃべれなくても意思疎通はできるようになってきました。基本「あー、うー」スタイルは変わらなくても、日本にいた時とほぼ同じようないじられ方をされるようにまで成長しました(日本にいる時も「あー、うー」しか言っていなかったのかもしれません)。もともとは移植フェローとして雇われたため、移植関連の手術をメインに入っていたのですが、そのうち大動脈、肺移植、ロボット、エクモ、緊急手術、と何でもやるフェローになることに成功?しました。

PAとの手術

アメリカに来てから1年半がたちますが、まだまだ毎日新しいことが起こり、学び、非常に充実しています。日本にいた時には何げなく過ぎ去っていた事象に、こちらに来てからは非常に敏感に反応するようになりました。僕は日本での研修ではきっと一人前に慣れないと思い、アメリカに留学することに決めましたが、誰もがそうした方がいいとは思いません。みんなそれぞれゴールは違うだろうし、ゴールを持たなくてもいいのだと思いますし。僕はただ、アメリカに渡って今心臓外科医として働いていることがとても楽しいので、この経験やもろもろを伝えたいと思い「週刊北原」を始めてもらいました。通常こういった連載は高名な先生が企業からの依頼を受けて執筆をしているのだと思いますが、この企画は僕の方からお願いして機会を頂いた感じです。

かつては「わかっているけど言わないでニヤリとする」と「わからないけど、取りあえずなんか言う」では、前者の方が断然クールだと思っており、自分からは手をあげず、聞かれたら答えを言う、というスマートさを信念にしていました。しかし、最近は後者の方がいいな、と思うようになってきました。もちろん、分かっていてしっかりものを言える人間に慣れればいいのですが。この企画もそんな「取りあえずなんか言いたい」という想いが形になったものなのです。僕が言うことは必ずしも正しいことではないですが、大きな声で想いを伝えていきたいと思っています。

追記:若手心臓外科医の会のブログ

若手心臓外科医の会

米国留学を始めてから、NPO法人 Team WADA(医師の海外留学情報を発信する団体)で企画する留学ブログの執筆を担当しています。最初は特に興味なかったのですが、最近は僕が感じている想いや経験を少しでも誰かに伝えたいと思うようになり、それをブログに残すようにしています。この「週刊北原」を開始してもらったのも、どうしたら留学ブログをもっとたくさんの人たちの目に触れさせることができるか、と考えた結果の行動です。留学に興味のある人にとっては非常に参考になる留学ブログだと思います。

<プロフィール>

北原 大翔(きたはら・ひろと)

1983年東京生まれ。2008年慶應義塾大学医学部卒業。モテるために心臓外科になりアメリカ留学を目指し、2016年より単身渡米。現在イリノイ州にあるシカゴ大学で心臓胸部外科医として働く。独身彼女なし。NPO法人 Team WADA(医師の海外留学情報を発信する団体)で留学ブログを担当。
››› NPO法人 Team WADA 留学ブログ

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北原 大翔

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