記事・インタビュー
大阪大学名誉教授
仲野 徹
#25
上毛新聞社(著)/発行
大隅 典子(著)/羊土社発行
宮下保司(日本語版監修)、Eric R.Kandel・John D.Koester・Sarah H.Mack・Steven A.Siegelbaum(原著)、岡野栄之(監訳)、神谷之康(監訳)、合田裕紀子(翻訳)、加藤総夫(監
訳)、藤田一郎(監訳)、伊佐 正(翻訳)、定藤規弘(監訳)、大隅典子(監訳)、井ノ口馨(監訳)、 笠井清登(監訳)/メディカルサイエンスインターナショナル発行
書評を書かせていただける機会がちょこちょこあって、ホンマにありがたいことでおます。さらにありがたいのは、そのおかげで、いろんなところから本をお送りいただけることだす。そうですなぁ、年間200~300冊くらいっちゅうとこですやろか。そんな中、あれっ?っと思った本からいきます。
大小さまざまな出版社からご恵送いただくので、中には聞いたことのない出版社からのものもある。一冊目に紹介するのは上毛新聞社から送られてきた本だ。読んだことはないけれど、上毛新聞の名は知っている。1985年の御巣鷹山日航機墜落事故を題材とした小説『クライマーズ・ハイ』(文藝春秋)の作者・横山秀夫が勤めていた新聞社だ。同書では「北関東新聞社」という架空の名称になっているが、上毛新聞社がモデルであるとされている。意外だったのは、送られてきた本のタイトル『脳とこころ』である。
失礼ながら、どうして地方の新聞社がそんな本を、と思ったのだ。しかし、『御巣鷹に逝った科学者』というサブタイトルを見てすぐに分かった。塚原仲なかあきら晃に関連した本だろうと。
塚原は1933年生まれ、東大医学部出身の神経科学者である。36歳で大阪大学・基礎工学部の教授に就任したことから分かるように文字通りの俊英で、日本の脳科学をけん引する研究者であった。しかし、翌年度から開始される予定であった文部省の特定研究班「脳の可塑性」の打ち合わせの帰路、事故に遭われた。大学時代の講義、恥ずかしながら、記憶していることはほとんどない。覚えていても、ちょっとした雑談であることが多い。しかし、医学部三回生の時に受けた塚原先生の講義、一回きりだったが、は、鮮明に覚えている。組織学、解剖学、生化学、生理学と、膨大な知識ばかりが披瀝されていく講義の中、小脳の機能制御を電気回路のように解説される論理的な内容は、かつての電気少年(←私です)に大きな感銘を与えた。それっきりだったが、墜落事故でお亡くなりになられたときは相当に驚いた。『脳とこころ』は、塚原から直接に薫陶を受けた研究者や、塚原の流れをくむ研究者のインタビュー集である。しかし、単なる思い出話集などではない。塚原の遺稿のタイトルでもある『脳の可塑性と記憶』をはじめ、脳トレ、神経科学と精神疾患、VR やAI、やる気の研究、意識の役割、などなど、わが国有数の研究者たちによる最新の脳科学研究が紹介されていく。
事故について膨大な報道があったにもかかわらず、塚原の名前が上毛新聞に載ったのは乗客名簿を含めてもわずか5件、どの記事もごく短いものでしかなかった。「当代一の脳研究者がここに逝った事実は、一般に知られてこなかった」ことに対する遺憾の意が取材の原動力になったという。しかし、そのきっかけは単なる偶然、記者の一人がたまたま目にした「わが国の偉大な神経科学者」という文章であった。
それを書かれたのは東北大学医学部教授の大隅典子先生。ということで、二冊目は大隅先生の『小説みたいに楽しく読める脳科学講義』を。タイトルから分かるように、脳科学の入門書である。脳の構造と機能から、その発生・分化・老化・性差、さらには最先端の脳科学まで一気に読むことができた。現在の脳科学についてこれだけ知っていれば必要にして十分という印象だ。かといって、教科書のような無味乾燥な本ではない。研究者たちが何を考えてどのような実験を行い、何が分かったかがたくさん紹介されている。もちろんどれもがガチンコのノンフィクション、小説以上に楽しく読める。
もう一冊は、かつて塚原のライバルであったノーベル賞受賞者エリック・カンデルの本、定番の教科書『カンデル神経科学』を。この本を読めば、神経科学の全てを知ることができるらしい。「らしい」って何やねん!と言われるかもしれませんが、買っただけで1700頁という厚さに恐れをなして読んでませんねん、スンマセン。カンデルは他にも『なぜ脳はアートがわかるのか-現代美術史から学ぶ脳科学入門』(青土社)という本も出している。こういう学際的な本を書けるっちゅうのは、真の教養人ですわな。すごすぎます。
御巣鷹山の墜落事故があったのは、前に阪神タイガースが日本一になった年だから39年も前、大昔のことである。その間の神経科学の進歩は、すさまじいという言葉がぴったり当てはまる。塚原先生が生きておられたら90歳、その間の進歩をどのように総括されるだろうか。
今月の押し売り本
今月の押し売り本
今月の押し売り本
大隅典子(監訳)、井ノ口馨(監訳)、 笠井清登(監訳)/メディカルサイエンスインターナショナル発行
仲野 徹
隠居、大阪大学名誉教授。現役時代の専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。
2017年『こわいもの知らずの病理学講義』がベストセラーに。「ドクターの肖像」2018年7月号に登場。
※ドクターズマガジン2024年2月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
仲野 徹
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