記事・インタビュー
イギリスのメディカルスクールを卒業後、家庭医(General Practitioner、以後GP)として10余年活躍し、2016年に日本に帰国された佐々江 龍一郎先生。最終回の今回は、イギリスの医療制度、そして日本帰国の理由についてお話しいただきました。
イギリスの医療
――イギリスの医療費の構造について教えてください。
家庭医療の医療費は、「包括ペイメント」と「評価ペイメント」の合計で計算されます。
包括ペイメントは登録患者1人に対していくらと決まっています。地域ごとの患者層によって負担も変動するので、「Carr-Hill Formula」といった式を使い適正にします。例えば、高齢者手当ではありませんが、高齢者が多い地域では負担が高くなるため比率がよくなったりします。
一方の評価ペイメントは、クリニカルアウトカムに対してお金が入ってくる、すなわち患者が健康になればなるほどお金が入ってくるシステムです。イギリスでは患者データはEHR(Electric Health Records)で一生涯管理されていて、疾患別、地域別、年齢別などのデータをもとに、地域のために行動化していくと評価され、お金が入ってくるのです。例えば、糖尿病の患者で糖尿病のコントロール(HBA1C)が良質な患者が一定以上の水準に達している場合は評価されます。つまり、地域の患者にどれだけの医療を提供しているかではなく、地域の患者が健康になればなるほどインセンティブが付くイメージです。
――医療費の構造を見てもわかるように、イギリスの医療はとにかく数値化されているのですね。
その通りです。医療を提供する側と受ける側を数値化することで、医療の質や診療所の質、そして医師の質や患者の満足度を透明化しています。医師の質について具体的に言うと、医師は年に1回「eポートフォリオ」を入力し、Appraiser(医療技術審査者)に会って評価を受けます。一緒に働くスタッフからの評価や満足度も数値化されるので、互いにリスペクトを持って勤務しています。
――GPの報酬はいかがでしょうか?
GPの平均年収は10万ポンド、約1,500万~2,000万円くらいだと思います。病院勤務医だと一番上のコンサルタント(卒後8~10年)になれば同等の給与がもらえます。レジデントやフェローは日本と同じくらいだと思います。アルバイトについては時給80~100ポンド。日本より少し高めですね。ただ、イギリスは福祉国家で所得税が日本に比べ比較的高いため、手元に残る金額が少し寂しく感じます(笑)。
――イギリスの医療ガイドラインはとてもユニークだと聞きました。
イギリスではNHSが定めたNICE(National Institute for Health a nd Care Excellence)ガイドラインというものがあります。ブレア政権時に作られたガイドラインで、特徴的なのは経済学者も参画していることです。
例えば、2つの薬からどちらか1つを選ぶ際、効能だけでなく、今後この薬を選択することで経済にどのような影響が出るかなども加味してレコメンドされます。臨床的な安全面だけでなく経済的側面からもジャッジしていることがユニークな点です。
もちろん日本の医療にもガイドラインはありますが、ガイドラインに多少変更が生じても影響は少ないと思います。しかし、NICEガイドラインが変わるとイギリスの医療は80%くらいが変わってしまいます。国の機関であるNHSが運用しているので、浸透するスピードも日本とは桁違いです。
Connaught Square Practice : NHS GP Surgery, London でスタッフと(2017年)
――イギリスでの学会活動について教えてください。
私はRCGP(Royal College of General Practitioners)に登録していて、年1回総会に参加します。専門医資格の更新は毎年eポートフォリオで行い、さらに5年ごとにまとめてGMC(General Medical Council)に送り、審査を受けます。OKが出れば専門医資格が更新されるシステムです。これは医師に限ったことではなく、看護師やコメディカルのスタッフたちも同様に行います。
論文はRCGPから強制的に書かされることはありません。イギリスではむしろ診療所の質の管理のため、「Audit」と言うレポートを定期的に書く必要があります。これはeポートフォリオの1つの必要項目でもあるのですが、日本でいうPDCAサイクルを診療所レベルでどう実践しているのかを報告します。例えば、診療所内における抗菌薬の処方率がそうです。こうして診療所レベルでも質の管理を定期的に行うことを求められます。
――イギリスでは「医局人事」という概念はありますか? 日本では転職をネガティブに捉える方もいらっしゃいますが、ご意見をお聞かせください。
イギリスでは医局人事は全くありません。NHSも人事権は持っていません。私もさまざまな病院や診療所で勤務し、転職も経験しましたが、ネガティブではありません。都度、条件は良くなりました。イギリスでは常に条件の良い職場に移るのは当たり前ですし、特にGPは診療所によってサラリーや勤務体系が違うため、転職は多いと思います。これは医療に限ったことではなく、優秀な人たちが動くのは当たり前になっていると思います。
日本へ帰国
――イギリスでそれだけのステータスを築いたのに、なぜ全てをリセットして日本へ帰国されたのでしょうか。
率直に言えば、「内なるチャレンジ」が欲しかったからです。私は運よくGPが30代で目指す診療所のPartnerになれましたが、私にはもっとやりたいことがありました。シンガポールやカナダなど国を変えるというオプションもありましたが、「日本で挑戦する」ことが一番しっくりきました。やはり日本人としてのプライドでしょうね。
また、当時イギリスに見学に来られた日本人医療従事者の方々に家庭医療について講演をすることが多くあり、その時の交流を通し、日本もイギリスと同じ過渡期であることを知りました。今後、家庭医や総合診療医の需要が高まっていく中で、自分のイギリスでの経験が少しでも役に立てばと思ったのが帰国の理由です。
人生はいろいろ経験してこそ「豊富」になるものだと思っています。帰国は一つの冒険ですね。
――帰国を決めてからのご苦労はありましたか?
とても苦労しました(笑)。大きな難関が2つあり、一つは日本の医師国家試験に合格しなければならなかったこと。20年以上イギリスで過ごしていたので、漢字や独特なニュアンス、そして医療用語を覚えるのにとても苦労しました。何とか無事に合格することができましたが、その後の初期研修期間を短縮させるための書類集めとその翻訳。これが何しろ大変でした。大学やそれまでの勤務先からの書類を集めるだけで一苦労なのに、さらにその書類を日本語に訳し、日本式フォーマットに英語で書く。この作業がとてつもなく膨大で、挫折しそうになりました(笑)。書類集めを始めてから全て提出するまでに4、5ヶ月かかりました。
今後の活動
――その後、初期研修医としてNTT東日本関東病院で研修されたのですね。
p>はい。通常であれば初期研修は2年間ですが、イギリスで医師免許を取得している私は最短の1ヶ月で初期研修を終えることができました。その1ヶ月は地域医療で、伊豆にある関連病院で研修を行いました。とてもおいしい日本食を食べながら、ゆっくり研修させてもらいました(笑)。
今は初期研修も終わり、総合診療科の一員として働いています。当院はJCIを取得している病院なので、外国人を診る姿勢が整備されています。私の今の仕事は、総合診療の外来、外国人患者への対応や診療、そして研修医への英語診療教育がメインです。
――今後のキャリアについてお聞きします。GPの経験を活かして教育機関での指導、または開業など考えていますか?
具体的には決まっていませんが、私はGPなので、どこかで「家庭医の教育や育成」に携わりたいと考えています。イギリスで培ったGPとしての経験をもとに優秀な指導医を育てることが直近の目標です。また、これまでは知識や制度をインポートしてきましたが、今後は日本が発信していく時代になると思っています。その中で日本は活躍できるグローバルな人材を排出していくべきだと思うので、英語教育にも携わっていきたいです。開業や起業に関しても興味はありますが、私が帰国した理由は「日本に貢献したい」という気持ちなので、今のところ開業予定はありません。
今回のインタビューを通しても、医師としてイギリスで働くキャリアパスもあるということや、日英の違い、そして家庭医や総合診療医の普及に微力でも貢献できれば幸いです。
佐々江 龍一郎(ささえ・りゅういちろう)
NTT東日本関東病院
総合診療科・国際診療科 総合診療医
佐々江 龍一郎
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