記事・インタビュー
Episode4 「言葉を発しない」という意思表示
一世紀を生き抜いた一人の男性が病院から老人ホームに帰ってきた。
循環器疾患で入院となったが、経過中に誤嚥(ごえん)性肺炎を合併、点滴・酸素・抗菌薬の投与が行われた。しかし状態はなかなか改善しない。
10日間と想定されていた入院期間はすでにひと月を超えていた。
病棟に問い合わせると、口からの食事や水分は全く摂れず、言葉も出なくなってしまっているという。
これ以上、入院してもよくならないなら、最期は奥さんの待つ住み慣れた場所で。
家族と病院チームの決断で、移送中の急変の可能性すら懸念される状況での退院となった。
もう、酸素も点滴も吸引もしない。
そんな看取りを前提とした覚悟の帰宅だった。
退院同日。
ご本人にお会いし、そしてご家族や関わる多職種のメンバーと最終的な方針を確認・共有するためにホームを訪問した。
彼は自分のベッドに横になっていた。
ベッドサイドの椅子に腰かける奥さんと見つめ合い、心なしか少し微笑んでいるようにも見えた。
僕は腰を落とし、彼の顔をのぞき込み「お帰りなさい」と声をかけた。
すると彼はこっちを見て「ありがとう」と絞り出すような声で、それでもしっかりと答えてくれた。
俺は死ぬために帰ってきたわけじゃない。
彼の目はそう言っていた。
「お疲れですよね。具合はどうですか?」
「大丈夫です」
「きっと、おなかが空いていますよね」
「はい。食べたいです」
「もう入院させたりしませんから。しっかり元気になりましょうね」
彼は強くうなずいて、少し涙を流した。
退院時の看護サマリーには「認知機能低下のため本人理解できず」と記載されていた。
おそらく、この患者には話しても分からないという判断が病棟で共有され、本人には納得のいく説明がないまま、5週間の入院治療が行われたのだ。
心が痛んだ。
体調が悪いとき、誰もが人との会話はなるべく避けたい。もともと脆弱(ぜいじゃく)な高齢者、そこに入院という環境変化のストレスが重なれば、最低限の会話も大きな負担になる。脱水や口腔環境の悪化、薬剤の抗コリン作用により唾液の分泌低下などが重なれば、会話の継続どころか発語も困難になる。さらに補聴器と義歯を取り上げられ、聴覚と構音機能が制約されれば、コミュニケーションのハードルはさらに高くなる。
それでも本人は懸命に言葉を探し、言葉を発しようとする。
しかし、忙しい病棟には、それを待つ時間的余裕はない。
複数の悪条件が重なり、病院のスタッフも本人とのコミュニケーションを早々に諦め、バイタルサインと検査データを頼りに治療を行ってきたのだろう。そして本人も、そんな周囲の態度に心を閉ざしていったのかもしれない。
物言わぬ患者を相手に疾患をコントロールし、肺炎治療に取り組んでくれた病院の診療チームには感謝の念しかない。
しかし言語的コミュニケーションが難しい=認知症という安易な判断は避けるべきだ。
なぜ、言葉を発しないのか、もう少し丁寧にアセスメントできないだろうか。
退院時の診療情報や看護サマリーに「認知症のためコミュニケーション困難」という文言をよく目にするが、退院後、在宅では普通に会話が成立する患者は少なくない。
そして「言葉を発しない」というのも一つの意思表示の形である、ということは知っておくべきだ。それは、話を聞こうとしない、話が分からないと一方的に決めつける専門職に対する無言の抗議なのかもしれないのだ。彼は自身の命をかけた5週間のハンガーストライキでついに退院を勝ち取った。
そして自分の思いが伝わる、たとえ言葉にできなくても自分の気持ちを汲み取ってくれるところで、最期までありたい自分を貫き通すのだろう。
ホームで実施した口腔ケア。彼はスポンジブラシに吸い付き、一生懸命水分を吸い取った。ムセもない。その後、ホームの看護師よりゼリー食を問題なく摂取できたと報告を受けた。
この人はきっと回復する。
帰りたい場所があり、待っている人がいる。
日々の暮らしの継続こそが生命力の源。
だからこそ、在宅医療の存在意義があるのだ。
僕はそう思う。
※ドクターズマガジン2024年2月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
佐々木 淳 ささき じゅん
医療法人社団 悠翔会 理事長・診療部長/内閣府規制改革推進会議 専門委員(医療・介護・感染症対策)
1998年筑波大学医学専門学群を卒業後、社会福祉法人三井記念病院の内科研修医になる。消化器内科に進み、おもに肝腫瘍のラジオ波焼灼療法などに関わる。2004年東京大学大学院医学系研究科博士課程に進学。大学院在学中のアルバイトで在宅医療に出合う。「人は病気が治らなくても、幸せに生きていける」という事実に衝撃を受け、在宅医療にのめり込む。2006年大学院を退学し在宅療養支援診療所を開設。2008年法人化し、現職。2021年内閣府規制改革推進会議専門委員。現在、首都圏ならびに沖縄県(南風原町)等にクリニックを展開し、約8100人の在宅患者に24時間対応の在宅総合診療を提供している。
- Episode1:本当に大事なものは何か
- Episode2:ポテンシャルと選択肢
- Episode3:子どもたちに噓は通用しない
- Episode4:「言葉を発しない」という意思表示 ※今回
- Episode5:無力感からの願い
- Episode6:がんばってくれたこの身体が愛おしい
佐々木 淳
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