記事・インタビュー
▲2018年 テネシー大学 ルボーナー小児病院「小児神経科に関わるスタッフ陣」
現在、アメリカのミシガン小児病院(Children’s Hospital of Michigan)で、小児神経科指導医として勤務されている桑原功光先生。どのような少年時代を過ごして医師を目指すことになり、海外で働くまでに至ったのか。その軌跡について語っていただきました。
<お話を伺った先生>
桑原 功光(くわばら のりみつ)先生
ミシガン小児病院
小児神経科指導医
Q:ハワイ大学でのレジデント生活はいかがでしたか。
USMLE STEP2CSを2回目のチャレンジでやっと合格して、ECFMGをついに取得して、小児科レジデントのマッチに臨みましたが、レジデントのポジションを得るまで本当に苦労しました。
私はIMGであり、卒後年齢も高く、Step1の点数は低く、さらにStep2CSは1回落ちていました。こうした悪条件では、全米各地の施設に100通以上応募しても、インタビューはなかなかもらえず、実際にインタビューが来たのは数施設のみでした。その数少ないインタビューに望みをかけて、3月のマッチ結果は南西諸島の徳之島にいる時に知ることになりました。徳之島は子宝の島として、日本一の出生率を誇る島ですが、当時は小児科医の常勤医はいませんでした。私はその頃、岸和田徳洲会病院に戻って小児科で勤務しており、留学の準備を進めながら、定期的に徳之島に診療に行っていました。
外来を終えて、ホテルで深夜未明にマッチング結果が公開されるのを待っていた時に、夜の12時頃だったと記憶していますが、病院から電話がありました。「生後1週間の赤ちゃんが熱を出して受診しています。今から診ていただけないでしょうか。」
私がホテルから病院に急いで駆けつけたところ、夜間の待合室に、母親が赤ちゃんを不安そうに抱いて私を待っていました。見覚えのある母親だなと思ったら、その赤ちゃんの姉妹がRSウイルス肺炎で入院していたことを思い出しました。新生児や乳児にとってRSウイルス感染は細気管支炎を起こし、非常に重篤な症状を起こすことがあります。「これはまずい」と思って、すぐに母親に駆け寄り、赤ん坊の顔をのぞいたその瞬間に、その赤ちゃんの呼吸が止まりました。
RSウイルス細気管支炎による無呼吸発作でした。「なぜ、マッチングを待っているこのタイミングで?」と頭によぎったのですが、もうそれ以上考えている余裕なんかありませんでした。気管内挿管して、諸治療を行い、空港へ搬送する救急車に乗り込む直前に、マッチング結果を確認しました。
スクリーンに出たのは “you didn’t match any program”. 空港で奄美大島の病院へ向かうヘリコプターに乗り換えて、用手換気を続けながら満天の星をずっと眺めていました。不思議と悲壮感はありませんでした。「アンマッチとひきかえだ。この子は無事に助かる」と直感しました。事実、その赤ちゃんは合併症なく帰島したと後日連絡を受けました。今、振り返っても、この出来事は「おまえはまだ海外に行く段階ではない」という何らかの啓示だったのでしょうね。その翌年になり、再度100通以上応募しましたが、1通もインタビューが来なくて、実は留学をあきらめようとしました。しかし、大きな転機がありました。
沖縄海軍病院でお世話になった小児科部長が、米国へ帰国の際に関西国際空港にトランジットする機会があり、私たち家族に関西国際空港で会いたいとわざわざ連絡をくれたのです。空港に会いに行って、全くインタビューが来ていない実情を説明したところ、「私でよければプログラムディレクターに連絡してあげる。どこのプログラムに連絡してほしい?」と申し出てくれたのです。すでにハワイ大学からはrejectionのメールが来ていましたが、「ハワイ大学にお願いできないでしょうか」とその小児科部長にお願いしました。
その結果、なんとその翌週にハワイ大学からインタビューのメールが来たのです。その小児科部長がどのように私をハワイ大学に推してくれたのかは今もわかりません。確実に言えるのは、その方の暖かい後ろ盾がなければ、私はハワイ大学にマッチすることはできなかったでしょう。
こうして、ハワイ大学でやっと小児科レジデントを開始した時にはすでに卒後12年目、37歳になろうとしていました。そこでは一人で上限8名までの入院患者さんを担当するのですが、背景にいろいろな合併症を抱えて入院するケースがほとんど。朝5時から指導医と一緒に回診する7時までの短い間に、担当する全新患の複雑な臨床経過を把握しなくてはならず、病棟ローテーションは多忙を極めて、体重が10kg痩せました。また、一つの病院で年間8,000件の出産があり、赤ちゃんを診るNewborn Nursery rotationは病院にいる間、昼夜を問わず呼び出され続けるので、気持ちにも全く余裕がありませんでした。
沖縄海軍病院を経た後ですら、私の英語には指導医からネガティブフィードバックが絶たず、IMGに医学英語を無償で毎週教えてくれていたDr.リトルの授業に通うことを義務づけられました。Dr.リトルはハワイ大学で研修した日本人医師なら誰もが知っている医学英語教師で、深く暖かい心を持った素晴らしい教育者でした。「私があなたのTOEFLよ」と優しくウインクして、私をずっと励まし続けてくれました。
Dr.リトルが日本で出版した「Dr.リトルが教える医学英語スピーキングが素晴らしく上達する方法(羊土社、2012年)」の表紙には、実はDr.リトルと一緒に私も写っています。残念なことに、Dr.リトルは2019年に逝去しましたが、Dr.リトルの教育への思いは、今も多くの方に受け継がれています。私もその一人です。
Q:テネシー大学におられた4年間についてもお聞かせください。
小児神経科にはマッチング方法が2種類あります。一般的なのは、小児科レジデントを2年、神経科を3年という5年間で終了するプログラムです(カテゴリカルポジション)。私はハワイ大学にマッチした時点では、神経科に進むつもりはありませんでした。しかし、ハワイ大学で研修中に小児神経科を将来の専門にすることを決めたため、ハワイ大学での3年にさらに3年を継ぎ足すプログラム(リザーブドポジション)を選択しました。この場合、リザーブドマッチという別のルートを通して、全米中の空きスポットを探さなくてはなりません。運良くテネシー大学に空きスポットがあってマッチすることができました。
アメリカでは小児神経科はフェローではなくて、レジデント扱いです。相変わらず経済的には厳しいものがあり、アメリカに渡ってから5年間、私はもちろん、妻も息子たちも日本に帰ることはできませんでした。2012年から渡米して、現在の2021年にいたるまで、家内と息子たちは実はまだ2回しか帰国できていません。渡米した2012年時に長男は3歳、次男は1歳でした。
それが今年2021年に長男は13歳、次男は11歳を迎えます。レジデント・フェローという経済的には決して恵まれてない環境下でずっとやりくりしてくれた妻には本当に頭が上がりません。また、日本語学校に通ってないにも関わらず、息子たちが日本語を維持できているのは、何よりも自宅で日本語を息子たちに辛抱強く教えている妻のおかげです。
テネシー大学では、全米を代表する小児てんかん医のDr. James Whelessをはじめとした素晴らしいスタッフ陣に指導を受けることができ、レジデント仲間にも恵まれて、充実した最高の小児神経科レジデントトレーニングを修了することができました。この間に本を2冊、テネシー大学から翻訳出版しています(「アメリカ神経内科専門医試験ワークブック 模擬問題1000問解答と解説(中外医学社、2018)」「チョードリー先生と学ぶ 小児神経画像エッセンシャルズ(MEDSi、2019)」)。
そのままテネシー大学で臨床神経生理学フェローを修了しようとしていたところ、ミシガン小児病院からオファーをいただいて、ミシガン州に家族とともに異動しました。同病院に行くことを決意した理由は、自分が求める臨床業務や患者層に適合していたことはもとより、将来的にJ-1ウェーバープログラムを利用できること、そして、ミシガン州は日本人コミュニティーが多く、私たち家族が大好きなアイスホッケーも盛んであり、子どもの公立校のレベルも高いことから、何より家族が幸せに暮らせると考えたからです。
Q:アメリカで日本人医師が働く場合、留意することはありますか。
アメリカで外国人が医師として働く場合、意識しなくてはならないのが、アメリカ人が本来就くポジションを、私たち外国人が奪うことになるということです。また、アメリカ人の医師が増えれば、逆に外国人が入り込む枠は少なくなります。このようにアメリカ人との競争が必然的に発生します。
以前は、アメリカ人に人気の低かった内科、家庭医療、小児科などですら、過去10年でIMGの割合が激減してきています。その一つの要因として挙げられるのが、D.O.の増加です。D.O.の学校はM.D.よりも入学しやすく、オステオパシー校の入学者数は増加の一途をたどっており、競争率も高くなっています。さらに、IMGの中には優秀なインド人やパキスタン人に加えて、中東系、アジア系のIMGが年々増えており、日本人の存在自体がさらに薄くなり、日本人のマッチングが難しくなっているのが現実です。USMLEの試験方法が変わり、STEP1が点数制から合否制になったのも、IMGの数を制限していく意図があると個人的に感じています。今後も、より厳しい状況になっていくのではないでしょうか。
また、日本に帰るのか、アメリカに残るのか、将来を考える時に大事になるのが、自分のライフステージと家族です。家族の存在により、将来の出口は変わってきます。常に、目の前にある状況の中で、何がベストなのかを考えて動いていかなければなりません。
私は大学時代にアイスホッケー部だったにも関わらず、当時の先輩・後輩間の人間関係の問題から、アイスホッケーにのめり込めませんでした。しかし、テネシーで息子たちがアイスホッケーを始めたことをきっかけに私も再開したところ、現在は家族みんながアイスホッケーに魅了されています。息子たちに抜かれるのは時間の問題ですね(笑)。私はよく『人生はアイスホッケーのようなものだ』と表現しています。日本では何と言ってもスポーツで人気があるのは野球であり、「9回裏まで何が起こるかわからないのが人生」など、野球にまつわる人生訓がまず多いです。しかし、私は人生はむしろ野球よりもアイスホッケーに近いのではと感じています。野球は1球ごとに動作が止まり、ダイヤモンド上である程度決められた動作が繰り返される、言わば「静的」なスポーツです。対して、アイスホッケーはアイスホッケーのパックを休まずに追いかけて、味方も相手も立ち止まることなく、目まぐるしくその位置が変化していきます。考えている余裕もなく、瞬時に臨機応変にその状況下でベストを思われる行動を選び、その行動がもたらした結果をもとに次の行動を決断していく、言わば「動的」なスポーツです。
特に私のように、ライフステージが40代半ばの中年期になってしまうと、自らのキャリア形成以外にも、こどもたちの成長、親の老い、自らの老後への準備といった課題が次々に目の前に現れて、心の余裕がなかなかもてません。状況は刻一刻と変わるため、その時のベストの選択肢が後にベストになる保証もありません。そもそも、正しい選択肢がひとつしかない状況なんて人生ではまずないのではないでしょうか。アイスホッケーのように「行くと決めたらまず走る。後悔はしない。そこからまた最善の道を選んでまた走るだけだ」という『覚悟』が、海外生活には必要です。
Q:後に、留学を考えている先生方にメッセージをお願いします。
家族にまず感謝しましょう。何より大事なポイントです。留学をすると間違いなく、自分も家族も「適応障害」に陥ります。その期間や程度は人それぞれですが、誰しもが経験するもので避けて通れません。家族の適応障害の程度がひどいと帰国も考えなくてはいけません。家族の幸せがあって、初めて自分が幸せになれます。臨床留学を自分のキャリア形成に生かすことは確かに大事ですが、家族を始めとする周囲の人たちに支えられ、生かされている存在であることをありがたく感じることができる医師であり続けたいですね。
▲2013年「ハワイに渡って間もない時期の息子たち」
最後に、医師としてのマインドセットについて話をして締めくくりたいと思います。私の母が助産師であったことは前述しましたが、よくこんな話を私にしていました。「私は『医師』って匂いがする医師が嫌いでね、あんたにはそんな匂いがするような医師にはなってほしくないよ」。母が「匂い」と表現したのは、思い返すとおそらく「他者の上に立ちたがる支配欲や自己顕示欲」を意図したのだと思います。日本、アメリカの両国で、そうした「匂い」を発する医師には私も少なからず出会ってきました。
私たちは、患者さんとの相対関係があって初めて私たち医師が存在している、という実相を時に振り返り、自分の立場を見つめ直す必要があります。私は「高貴な人間には義務が伴う」という意味のフランス語 “noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)” という言葉を大事にしています。目の前にいる患者さんのために最大限努力することは医師の義務であり、何よりもの医師の存在価値です。医師とはそれ以外の何物でもありません。自分の存在価値に誇りを持っている人は、品位を保とうとして過剰に誇示する必要もありません。どこで医療を提供しようとも驕らずに、今後も一人ひとりの患者さんと自分自身に向き合っていきたいと思います。
”Stay classy wherever you are”.
桑原 功光
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