記事・インタビュー

2017.10.26

【Doctor’s Opinion】チーム医療を考える

千葉市青葉看護専門学校 校長
高橋 長裕

 四十余年の臨床医としての生活を、某自治体病院院長の職を最後にひと区切りし、現在のポストに就いて1年になろうとしている。以前にも非常勤講師として、看護学生への講義の経験はあったが、中に入ってみると、看護師養成機関として規定されている非常にタイトなカリキュラムと、その独特な風土に少なからず驚かされたのが正直な印象であった。

医師と看護師の関係は、よくodd couple〝奇妙なカップル〞に例えられ、本来お互いパートナーであり、協調・協力しなければならないのに、心の底では必ずしも仲が良くないと言われる。いつか聴いたジョークに、医師がM.D. はmaking decision の頭文字をとったものだ、と言うのに対して看護師がR.N. はrejecting nonsense だと反論するもので、一昔前?の医師 看護師関係を象徴しているように思える。看護学校の運営、教育方針に責任を持つ立場として、看護とは何かを多少なりとも理解しておくべきであると思い、千葉大学看護学部で看護学原論の講義を聴講させていただいている。大学一年生に交じって勉強するのは大変新鮮な経験であるが、もちろんこれだけで看護の根本を理解するのは到底無理な話で、教材のひとつであるフローレンス・ナイチンゲールの「看護覚書き」を何度か読み返したりしてみた。

そうしたなかでふと思ったのは、看護学部で看護学原論の講義があるのは当然として、医学部で医学原論を教わったかなということである。医学部での教育では、病気を理解するための基礎医学と、各種疾患の各論としての臨床医学が主体で、〝医学とは〞〝医師とは何をする仕事か〞といった根本的なことについての話は、正直全く記憶になかったが、微生物学の川喜多愛郎教授に、「医学原論」という講義を受けたというかすかな記憶がよみがえり、たまたま川喜多先生の「医学概論」(初版は1982年出版)が復刊されているのをみつけて、早速読んでみた。川喜多先生の話は今読んでもなかなか難解で、しかもこの著書は医学全体を論ずる膨大なもので、全てを十分に理解できたとは到底言えないが、ヨハネによる福音になぞらえた「はじめに病人があった」というフレーズが心に響いた。我々はしばしば「はじめに病気があった」という錯覚を抱くが、人なくして病気はあり得ない。同じ疾患であっても、患者各々でその全体像は異なり、当然各々に応じた治療、ケアが必要である。内科系医師の多くは診断がついたとたんに、外科系医師は手術が終わると、急速に患者に対する興味を失う傾向にある。看護の本領は患者の全経過を通じて、その闘病をサポートすることであり、考えてみると実際に、我々が直接行う治療より暖かい看護の方がより実効性があるのではないかと思われる。無論、これらのいずれが欠けても診療は成り立たず、共通の目標に向かって各々の担当をしっかり果たし、お互い補完しあうのが本来の姿であることは言うまでもない。

近年「チーム医療」の重要性が改めて声高に叫ばれるが、医療が単独の職種で成立しないことは遠い昔から認識されている。我が国最初の法体系である大宝律令(701年)の医疾令には、医博士、医師、針博士、薬園師、按摩師などの「専門職種」が記載されており、まさにチーム医療の原型が見てとれる。最近のチーム医療の議論では、とかく仕事の分担に焦点があてられ、本来の患者を中心とした真の協調・協働の面が強調されないのはゆゆしきことである。

私は数年前に診療情報管理士の資格を取得し、多くの情報管理士との付き合いがあるが、診療録管理に対して医師の協力が得られないという不満をしばしば耳にする。現在の診療情報管理士は、単にカルテを整理して病名コーディングを行う職種ではなく、診療情報の二次利用に関する高度の知識・技能を持っている人が多数いる。そのためには、その基礎となる日々の診療記録の品質を、各種統計処理などに耐えられるレベルに保つことが必須であり、診療記録を書く医師が、その重要性を認識し良質な記録を残すことが必要なのである。

このように他職種との協働によって医療の質を高めていくことは、医師として当然の務めであるが、まず我々医師は他の医療専門職をもっと理解する必要があろう。無論、医療専門職の中には、なかなか頑固で垣根が高い部門もあることも事実であるが、お互い「腹を割って」相互理解を深めることに我々はもっと積極的であるべきであると思う。

 

※ドクターズマガジン2013年3月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。

高橋 長裕

【Doctor’s Opinion】チーム医療を考える

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