記事・インタビュー

2017.10.26

【Doctor’s Opinion】私の期待するケアマネージャー像

医療法人萌気会理事長
黒岩 卓夫

 私が、ゆきぐに大和総合病院(現・ゆきぐに大和病院)を辞めて、同地に診療所を開いたのは約20年前です。診療スタイルは外来と往診(訪問診療)を基軸に、介護保険制度による介護サービスを在宅の枠の中で展開しています。

要するに雪国で日々お年寄りとのおつき合いに時間を費やしている在宅医です。そうこうしているうちに2000年4月から介護保険制度が発足し、在宅ケアも大きく変わりました。

そこで、その介護保険制度の中核に位置するケアマネージャーについて考えてみたいと思います。また、それと同時に、多職種協働とは何かも考えてみましょう。

医療界では医師が絶対的な権限を(責任も)持っています。診断から治療まですべてにおいてです。おそらく厚労省はこのピラミッド型を嫌って、介護保険制度には絶対者をつくりませんでした。医療を下敷きにしてみると、診断は要介護認定委員会、治療の基本方針はケアマネージャー。治療メニューの実行は多様な介護サービス拠点で、これらの力量が“自立”なる目標を左右することになります。

こうした3段階で、介護制度のサービスが執行されますが、やはり基本を提案するケアマネージャーの役割がポイントです。つまり、多職種協働のコーディネーターでありプロモーターでもあります。

ところで、このケアマネージャーの生みの親は誰か。厚労省の介護制度における最大の落とし子ということになっています。しかし、この役割の原型は日本では古来、庶民の中に形成されていたと見ることができます。その1例として越後が生んだもっとも愛すべき良寛さんの看取りを見たいと思います。

良寛さんは天保2年(1831年)1月6日74歳で亡くなりました。当時では長命です。さて、この方は男で生涯独身、自分の家を持たず、僧として托鉢にて糊口をしのいでいました。さらに加齢に加えて大腸がんが死因と考えられています。この条件はまことに現代的であることに驚きます。

良寛さんを看取った者は、弟子遍澄(へんちょう)、弟由之(ゆうし)、恋人貞心(ていしん)、そして良寛さんに最晩年の居場所を提供した木村家の御夫妻です。看取りの場に、医師はいません。看取りに医師は必要なかったのです。

さて唯一の弟子遍澄は、良寛さんが国上山の五合庵に住んでいるころから、弟子として何くれと面倒を見てきました。まずヘルパーでした。年をとるにつれて山の中腹では無理ということで、平地の乙子神社境内の庵に誘いました。良寛さん齢60歳。そして日常生活に常時人手が必要となるころ、今で言えば食事、世話つきの場を選び、申し出を快く受入れてくれた木村家に誘ったのは69歳のことでした。

こうして73歳まで木村家の人たちのケアを受け、良寛さんの生涯にふさわしい、かつ不可欠な人たち5人によって、あたたかく看取られました。遍澄はケアマネージャー、由之は誠実な実弟、貞心は心のナース、木村家の人たちがホームとヘルパーを、それぞれの役割を受け持ちました。医師もいました。

この遍澄こそが、ケアマネージャーの中のケアマネージャーではないでしょうか。良寛さんの最後の心の友であり、彩りを添えた貞心との出会いすら遍澄の計らいによるものと言われています。

私はこうしたケアマネージャーの世話になって看取られたいと思います。

※ドクターズマガジン2011年6月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。

黒岩 卓夫

【Doctor’s Opinion】私の期待するケアマネージャー像

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