記事・インタビュー
広島市病院事業管理者
広島大学名誉教授(麻酔・蘇生学)
弓削 孟文
医学はものすごいスピードで、どの領域においても姿を変えて進んでいる。私たち医療人には、めまぐるしく変わっていく医療に合わせて、安全にそして有効な支援ができるように対応していく柔軟性が要求されている。そして、まだまだではあるが、治る病気と治らない病気が少しずつ明確になってきた現状がある。
我が国においては、現在の医療では治らない病気へのアプローチが重要な時代となった。それは、適切な調節医療を提供することにより病気そのものは治癒しないが、正常な人とまったく変わらない生活の質を保ったまま日常生活が送れる状況を維持できる患者さんも多いからである。
この潮流は、病院において患者さんに提供する医療のパラダイムシフトであると言って良い。つまり「治す医療」から「調節する医療」へのシフトである。この医療のパラダイムシフトの中で、麻酔科医の臨床機能に注目が集まってきている。
多くの麻酔科医は麻酔管理を主軸にした臨床活動をしながら集中治療や救急医療、そしてペインクリニックをサブスペシャルティとして行っている。1973年(昭和48年)、私が麻酔科医としての研修を開始した時代には、「麻酔科医です」という医師は日本全国で400名程度であった。約40年を経過して、今、日本麻酔科学会の専門医は約7000名である。そのうち、指導医は3000人あまりである。当時の17〜18倍に増えてきているが、現状でもまだまだ十分な数ではない。日本国内で手術を受ける患者すべての麻酔管理が、麻酔科医の手によってなされる時代はいまだ到来していないと言える。
さらに強調しておかなければならないことは、麻酔科医の臨床機能が、一般の人々に今なお十分には周知されていない事実である。医療現場からの麻酔科医へのニーズは膨らんできているが、一般の人々からのニーズはこれからであろう。
麻酔科医は手術を受ける患者さんの麻酔管理を担当する専門医であるが、麻酔管理とはなんであろうか。手術を必要としている疾患本体の正確な理解、合併疾患の程度とコントロールの状態、どのような麻酔法が適切か、術中に起こる可能性のある合併症とそれへの対応、そして術後の処置など手術侵襲によってもたらされる体への影響を最小限に食い止める対策を一手に引き受けて、調節医療を提供するのが麻酔科医である。
もともと麻酔管理はcareの医療である。麻酔中に、麻酔深度が浅くなり血圧が上がる、頻脈となる、心室性期外収縮が出現する……麻酔深度を深くするために全身麻酔薬を追加する、異常な高血圧であればペルジピンを静注する、頻脈には場合によってはβ-ブロッカーを投与する。これらの対応は、それぞれのバイタルサインの変化に対しては治療であるが、生体全体で見ればとりもなおさずcare の医療、すなわち調整・調節医療である。
麻酔科医は、この調節医療を専門とする臨床医である。全身麻酔を施すと体温は低下する。それは、体温調節中枢を全身麻酔薬が抑制し、血管拡張により熱が体外に逃げ低体温となっていく。Awakeであれば脊髄反射で末梢血管を収縮させて熱を維持しようとする反応が起こるが、全身麻酔中ではこの反応が抑制されていて、体温はどんどん低下するのが一般的である。体温が低下すると、(1)心収縮力低下、(2)神経活動低下、(3)肝臓の代謝機能低下、などが起こる。
心収縮力が低下してくれば血圧が低下し、心臓から拍出する血流量が十分に確保されない状態になる。神経活動が低下すれば覚醒遅延が起こり、そして、肝臓での薬物代謝が抑制されると全身麻酔薬や筋弛緩薬が代謝されず血流に乗って体中をめぐるために、いつまでも覚醒しない、あるいは呼吸を自分ですることができないなど、重大な問題へと発展する。したがって体温保持をする対策が必要となる。
このように、麻酔管理においては治療と言うよりも、 careの概念で対応する必要がある。
麻酔管理は、すべてがcareの対応であると言ってもいい。来る日も来る日も手術室の中で調節医療を展開している麻酔科医は、care 医療の専門家として成長していく。
対象が手術患者の全身管理であったり、術後患者の呼吸管理、循環管理、代謝管理であったり、慢性痛の治療であったりするが、いずれもcare医療を提供する医師として臨床のあらゆる現場で機能している。これからのさらなる発展が楽しみだ。
※ドクターズマガジン2010年7月号に掲載するためにご執筆いただいたものです。
弓削 孟文
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