記事・インタビュー
ペシャワール会現地代表/PMS総院長
中村 哲
※ドクターズマガジン2010年11月号に掲載された内容です。
快諾したのは、危険を恐れる気持ちより好奇心が勝ったから
とにかく昆虫が好きだった。
大事を成す人の、そこにいたるまでの発端をたぐり寄せてみると意外に当事者には何かを始めた意識などなく、たわいない興味や行動がことのはじまりだったりする。「井戸掘りをする医師」として広く知られるペシャワール会現地代表の中村哲氏も、その例に漏れない。
「1978年のヒンズークシュ・ティリチ・ミール遠征隊と称する福岡にある社会人の山岳会から、ひょんなきっかけで、私につき添い医としてアフガニスタンに同行してほしいとの打診がありまして──」
山と昆虫好きな市中病院の勤務医だった中村氏は、地元の山岳会からのつき添い医の依頼を、アフガニスタンの山中に生息する珍しい昆虫に心惹かれて引き受けた。
「当時、アフガニスタンは、日本にほとんど情報が入ってこない空白地帯。快諾したのは、危険を恐れる気持ちより珍しい昆虫への興味が勝ったからです(笑)」
平凡な予想を、見事に裏切ってくれる。だから大事を成す人の話は面白い。昆虫好きが高じた無鉄砲とも思われる行動──それが、すべての始まりだった。
無念と無力さを忘れないためにたびたびパキスタンへ
数年後、JOCS(社団法人日本キリスト教海外医療協力会)が、ペシャワールのペシャワールミッション病院で展開するハンセン病患者支援プログラムへの有給勤務の話を中村氏に持ちかけ、彼が了承したときの心持ちは、以前とは、いささか、と言うよりかなり違っていた。
実は、初めてアフガニスタンを訪れたヒンズークシュ・ティリチ・ミール遠征隊に同行した折、中村氏は政府の観光省から住民に対して診療拒否をしないよう申し渡されていた。したがって診療をしながらキャラバンをつづけたのだが、進めば進むほどに患者たちの数は増え、いつしか群れとなり、とてもまともな診療ができる状態ではなくなった。
有効な薬品は隊員のためにとっておかねばならないため、処方箋を渡すのだが、貧しくて現地の住民の手に入らないだろうことは容易に想像できる。仕方なく、子どもだまし程度のビタミン剤などを与えてお茶を濁した。無念と無力さと良心の呵責が、彼の体中を駆けめぐったに違いない。
帰国した彼は、なんと、後に何度もパキスタンを訪れたそうだ。たぶん、そのとき感じた無念を豊かさに慣れ切ってしまった日本の日々の中で失いたくなかったからではなかろうか。JOCSの依頼を受けたのは、彼の著書『ペシャワールにて』の序章の言葉を引用させていただけば──余りの不平等という不条理に対する復讐──をするためだったのだと思う。
アフガン難民を見て腰を据えて取り組む覚悟を決める
「ペシャワールをアフガニスタンにある町だと思っている方も多いようですが、同国との国境から50キロメートル離れたところにあるパキスタンの町です。とはいえ、行ってみてわかったのですが、アフガニスタン東部とペシャワール周辺は、民族も、文化も同じで、事実上一体なんですね。そのせいなのでしょう、ペシャワールはソビエト連邦(以下、ソ連)軍に追われたアフガン難民であふれていました」
アフガニスタン周辺の国境は近代ヨーロッパが勝手に引いたものである。隣国同士の合意のうえで形成された概念的な国境に進出、侵略した先の大地で行政上の国境を無遠慮に引きなおしていった。結果、歴史ある文化圏を基準にまとまっていた国々が捻じ曲げられた国境によって引き裂かれ、ときに紛争が起き、ときに事実上の自治区が形成された。
アフガニスタンとパキスタンの国境地帯にあるペシャワールは、引き裂かれた典型の町だった。
JOCSのプロジェクトの任期は1期が3年間で、一般的には1期で帰国する。特に中村氏は家族同伴だったので、3人の子どもたちの教育を考慮すれば、1期で終了するのが当たり前の行動だが、彼は任期を延長。そして最終的に彼は、驚くべき結論を出す。「とても6年や7年ですむことじゃない。覚悟せんとしょうがなかろう」
覚悟を決めた中村氏は、まずJOCSから離れた。
しばらくしてJAMS(日本アフガン医療サービス)を立ち上げる。とりあえずの目標は、アフガニスタンの無医地区での感染症の多発地域に診療所を建設すること。活動資金にはペシャワール会への寄付金と中村氏が日本で脳外科医として病院で働いた給与があてられた。この時期から日本半分、現地半分の生活がしばらくつづく。
「とりあえずの目標」がアフガニスタンでの活動になったのは、前述したような国境に関する背景を知れば、納得しやすいだろう。パキスタンも決して恵まれてはいないが、アフガニスタンにくらべれば何十倍もましだった。当然のように中村氏の視線は、より困っているほう、つまりアフガニスタンへと向けられていったのである。
彼の地にあっては水源確保が医療行為そのもの
中村氏が、ペシャワールに渡った当初、周辺地域はソ連の傀儡政権下にあった。それが1989年のソ連全面撤退を経て内戦にいたり、1996年にタリバン政権の成立によりやっと安定の時期を迎える。一連の激動の中で報道機関はアフガン難民を「政治難民」と捉え世界中に報じた。さて、難民報道の話題にさしかかると、今まで自らの活動を飄々と話していた中村氏が、打って変わって憤りを抑えられない様子で報道の間違いを指摘し始めた。
「アフガニスタンに生まれている難民の大多数は、政治難民ではなく干ばつ難民です。ほとんど知られていませんが、2000年ごろに大干ばつが顕在化、農地が砂漠化し、住民はどんどん難民化していきました。
しかし報道では、すべての難民が政治現象と結びつけられ語られていた。ソ連軍が侵攻してきたときの難民も、実際は半分以上は環境難民でした。政策に反対して抵抗をつづけたのではなく、食えなくなって出てきた人がおそらく半分以上を占めていたはずです。2000年以降の難民も同様。難民化の主原因はアフガニスタン紛争ではなく、干ばつだった。私は村が、まさに『消えていく』様子を何度も見ました」
難民が罹患する最大の要因は、飢えや渇き。農作物をつくれ、水を飲める環境をつくる以外、薬をいくら費やしても、難民の患者の増加は止められない──医師である中村氏の活動が、診療から井戸掘りと用水路建設に拡大していったのは、このためだ。「井戸を掘る医師」として報道される中村氏を医療より農業が大切との意図で井戸を掘り、用水路を建設していると誤解している人も多いだろう。しかし、中村氏は医師を辞めたのではない。彼の地では、水源確保が医療行為そのものなのである。
人間はよくできていて危険が日常的になると次第に慣れてくる
中村氏らの活動は、ペシャワールに基地病院を設け、アフガニスタン国内に拠点を広げる方式で展開されていった。3ヵ所からスタートした診療所網は、最盛期には8ヵ所にまで拡大したそうだ。中村氏とともに活動するのは医師免許を持つ現地の有志たち。これまでには、複数の日本人医師も参加している。
「日本の若い医師は、CTスキャンがなく、心エコーもとれないと診断できない。電気がないと何もできないんですね。これには困りました(笑)。我我の世代までは、かろうじて理学所見重視の傾向がありました。現代の日本の医療界では『聴診器で、なんでも診られる医師をめざす』は、今は昔の発想になってしまった。ならば、しっかり教育は受けたけれども実地経験の少ない現地の若い医師を教育したほうが早いし、将来的にも有意義です」
JAMSの活動は広がりを見せ、1994年、ペシャワールにハンセン病根絶のための病院PLS(ペシャワール・レプロシー・サービス)が設立、1998年にはPLS、JAMSが統合されて恒久的な医療を行うPMS(ペシャワール会医療サービス)がつくられ、中村氏はPMS総院長となった。
ところで、彼がアフガニスタンで繰り広げる医療活動を語る中、「診療所そのものが、武装していた」と聞いたときには驚愕した。平和な国の住人には、想像すらできない状況に中村氏の日常があるのを痛感する。現地日本人スタッフの伊藤和也さんが連れ去られて、殺害された事件は記憶に新しいが、JAMS時代を含め、ペシャワール会の活動中に命を落とした現地スタッフは5人になるという。話しながら中村氏の表情は明らかに曇ったが、同時に、そうした出来事でいちいちつまずいているようでは死が背中合わせにある国では何もできないとの信念も伝わってきた。
「私は、拉致された経験はありませんが、体のすぐ横を銃弾が飛んでいったり、そばにロケット弾が打ち込まれる経験もしました」
愚問と知りながら、恐怖はないのか尋ねてみた。
「危険が日常的になると、人間はよくできたもので慣れてくるんですね。人は順応するものなのです。怖がっていたら仕事になりませんし──。いつの間にか、『死ぬときは死ぬさ』という気分に支配されます。まわりの仲間を見ていても同じですよ。危険な場面では、ひとりや2人の犠牲者が出るのはやむをえないと自然に思えてくる。もちろん、犠牲者の中に自分が入るかもしれないだろうとも思います」
ここまで過酷な環境下で、ここまで尊い活動を継続した当事者が発する、「人は順応するものなのです」の言葉は、さすがに凄みを帯びていた。
アフガニスタンには日本人だからこそできる支援があると思う
現在の中村氏の生活は、尋常ではない。現地では命がけの環境下で仕事、さらに日本とアフガニスタンを頻繁に行き来しつつ、寄付金集めの活動を精力的にこなし、他方では家族の生活にも心をくだかねばならない。なぜ、そこまでしてアフガニスタンでの支援活動にたずさわるのか。
「私は、アフガニスタンで日本人だからこそできる支援があるように思えるのです。普通なら生きて帰れないケースでも、私が日本人とわかると手のひらを返したようにアフガニスタン人が友好的になる場面を何回か体験しました。アフガニスタンの国民は多くがたいへんな親日家なのですよ。彼らが口をそろえて言うことが2つあります。ひとつは日露戦争。もうひとつは広島、長崎での原爆投下。山奥でも、中には『トーゴー』とか、日本人の若者さえ覚えていない人名を知っている人がいるのには仰天します(笑)。
100年近く前のアジアを考えてみれば、アフガニスタンと日本とタイぐらいが独立国で、あとは欧米列強の植民地、ないしは半植民地だった。したがって、戦争の善し悪しはさておき、日露戦争では勝ったとは言えないまでも、日本は大国ロシアを撃退し独立を守った。これが独立国家であろうとするアフガニスタンの人々を大いに励ましたのでしょう。日本への熱狂と言いますか、共感が世代から世代へ語り継がれたようです。
広島、長崎の場合は、同情ではなく、戦後の驚異的な復興と、経済大国になった国はたいてい戦争をしているのに、日本は世界で唯一の被爆国として戦争放棄を憲法で謳い、戦後約60年間、出兵をしてこなかったことへの敬意。昔、日本人がスイスに対して持ったのと同様の憧れを、アフガニスタン人は日本に抱いているのですね」
中村氏が直感した、「アフガニスタンで、日本人だからこそできる支援」は、実はそんなところに裏づけがあるのかもしれない。おそらく、アフガニスタンの人々が日本人に寄せる信頼感が、彼の感性のアンテナを刺激したのだ。ただ、中村氏からは無念な言葉がつづけられた。
「アフガニスタン人の日本への共感は、湾岸戦争以降、風向きが変わった気がします。直接でないにしても、自分たちの仲間を殺し、村々を焼き払う部隊が、沖縄の米軍基地から来ているのですから仕方ないでしょう。
日本は、いったいなんのために沖縄を貸しているのか。自国防衛のためではないのか。まったく別の目的で沖縄の基地が使われている事実を日本は恥ずべきで、日本国民には絶対に見すごしてほしくありません」
用水路の完成は掲げたプロジェクトの実現の端緒にすぎない
中村氏にじかに接し、もっとも予想に反していたのは声高でないところ。自然保護、反戦など、さまざまなテーマを持って活動する人々はあまたいるが、皆、声高に主張する。中村氏は主張するのではなく、黙々と実行する人だ。「私はこれをやっている」、「これに気づかぬ世間は間違っている」と強く自己主張する活動家は“主張する活動家”であって、“実行する活動家”とは違うのだとわかった気がした。
「用水路がようやく完成に近づいていますが、それは掲げたプロジェクトの実現の端緒にすぎない。我々は安易に喜んではいません。水はきたけれど砂漠地帯。これからは開拓が必要で、おそらく食物がとれるようになるには最低5年はかかるでしょう。さらに用水路の保全。25キロメートルの水路全体を保全する半職能集団の村をつくってやっとプロジェクトは最終局面を迎えます」
もちろん中村氏はプロジェクトに向けて力を尽くし、成功を見届けるつもりだ。
「いやあ、歳ですね。やはり若いときのようには働けない。最近、腰を痛めまして。今回の帰国中になんとか体を修繕したいところです。以前は『俺の目の黒いうちは』なんて言えましたがもう目は白くなってきています(笑)。でもまあ、それなりの落とし前はつけなきゃいけないと思っています」
意外な展開を見せた中村氏の活動には、巻き込んだのか、自ら巻き込まれたのかは知らないが、多くの人々がかかわっている。プロジェクトの成功──自分に端を発したプロジェクトにかかわった人たちへの、これが彼の言う「落とし前」のひとつになるのだろう。
弾よけになってくれると信じられる人々に囲まれて生きる喜び
ペシャワール会の将来展望は、至極シンプル。日本人による継承にはいっさいこだわらず、「現地の人材育成を通して、将来的には現地スタッフへ引き継いでいければ十分」と中村氏は薄く笑う。
「もしや自分の活動を継いでくれる日本人が現れるかもしれないと20年以上も待ちましたが、いまだに現れない。最近は、現れれば儲けもの、あまり期待しないようにしています。むしろ現地の人たちが、いつか私たちがいなくなっても自活できるようにしていかないと。」
協力してくださる方がまだ少ないころ、一時は日本人は薄情なもんだと感じたけれど、狭い土地にしがみついて生きていかねばならないのも、楽じゃない。責めてみても仕方がないわけで──せめて寄付をしていただければうれしい限りです」
中村氏が考える己の将来像も輪をかけてシンプルだ。
「今の活動をつづけるのみです。アフガニスタンは、確かに危険。でも、人間関係が本当に濃い。銃弾が飛んできたときに『ドクター危ない!』と言って自ら弾よけになってくれるだろうと信じられる人々に囲まれて生きるのは無常の喜びです。医師である私が生きれば、たとえ自分ひとりが死すとも多くの命が救われる。とっさに、そんな判断をするのでしょう。
昔の歌謡曲の詩に、あるじゃないですか。『あなたのためならたとえ火の中、水の中』。かつての日本には、いたかもしれませんね。医師のために本当に火の中、水の中に飛び込む人が。自分の気性を考えると、今はどちらかと言えばアフガニスタンでのほうが裸の心で生きられる気がします」
中村氏の伯父は、芥川賞作家である火野葦平氏。代表作とも言える『花と龍』の主人公夫婦の玉井金五郎とマンのモデルは中村氏の祖父母で、小説には中村氏も実在どおり彼らの孫として登場する。
彼は、まったくの小説どおりではないにせよ、船から陸への荷揚げ荷下ろしをする労働者の手配を家業としていた家で、悪く言えば荒くれた、良く言えば男気のある男たちに囲まれて育った。一般家庭とは違った環境下で中村氏は何を得たのだろう。今の彼の生き様を見れば想像は容易だ。正義感、真の優しさ、勇気──そして気概。
すべては、昆虫好きから始まった。しかし、中村氏が昆虫好きの平凡な医師だったなら、ペシャワールに行ったとしても、結果はまるで違っていただろう。並外れた気概の持ち主であるがゆえに彼の選択肢に恒久的な帰国はなくなり、医師がゆえに彼は干ばつと闘いつづけるのである。
<プロフィール>
中村 哲(なかむら・てつ)
- 1973年
- 九州大学医学部卒業
国立肥前療養所 - 1975年
- 大牟田労災病院
- 1980年
- 馬場病院
- 1984年
- パキスタン北西辺境州ペシャワールのペシャワールミッション病院に赴任。ハンセン病棟にて診療開始
- 1986年
- JAMS(日本アフガン医療サービス)を設立しアフガン難民キャンプへの診療活動開始。その後パキスタンとアフガン国内に診療所10ヵ所設立
- 1988年
- 外務大臣賞受賞
- 1992年
- 毎日国際交流賞受賞
- 1993年
- 西日本文化賞受賞
- 1994年
- ペシャワールにハンセン病根絶のための病院PLS(ペシャワール・レプロシー・サービス)を設立し北西辺境州における本格的なハンセン病コントロール計画に着手
- 1996年
- 読売医療功労賞受賞
- 1998年
- 朝日社会福祉賞受賞
PMS(ペシャワール会医療サービス)を設立。PLS、JAMSを統合し恒久的基地病院として活動を行うペシャワール会現地代表、PMS総院長 - 2000年
- アジア太平洋賞特別賞受賞
- 2002年
- 若月賞受賞(佐久病院)
第1回沖縄平和賞受賞
日本ジャーナリスト会議賞受賞
中村 哲(なかむら・てつ)
- 1973年
- 九州大学医学部卒業
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